曼 殊 院

 今日は曇り空であり、昼からは雨模様になりそうな日である。阪急で四条河原町に出て、そこからタクシーで曼殊院へ向かう。四条大橋を渡ってすぐ左折し、鴨川沿いに川端通りを北上する。出町柳の賀茂川と高野川の合流しているところから今度は高野川に沿って曼殊院通りに出る。この道を通るのは初めてであるが、特に高野川沿いの道に風情がある。小さな曲がりくねった道を通って曼殊院前の情緒ある参道に出る。

 曼殊院はもともと傳教大師最澄の草創に始まっており、(八世紀)当時は比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。その後平安初期に曼殊院と改名され、現在地に移されたのは江戸初期である。桂の離宮を造営した桂宮智仁親王の次男良尚親王が十三歳で出家されると、父君桂宮は御所の北から当地に移ってきた曼殊院の造営に苦心された。建築、作庭の基本理念は細川幽斎から伝授された古今和歌集、古今伝授、源氏物語、伊勢物語、白氏文集などの詩情を形象化する事であったという。

 山門の石段を登って院内にはいる。受付で荷物は預けて下さい、と言われる。特に肩からぶら下げるバッグは、途中で襖等に当たるので中には持ち込めないようになっているみたいである。カメラのみバッグから取り出して大書院に向かう。大書院から小書院の前に、名勝庭園として指定されている枯山水の庭が広がっている。

大書院の縁側の右端に座って、庭を眺める。白沙の向こうには霧島躑躅が並んでいる。そして左手には鶴島の五葉の松(樹齢四百年)が見える。今度は大書院の左端にある縁側の角に座す。正面に鶴島があり、その島の松の根元にキリシタン灯籠(クルス灯籠、または曼殊院灯籠とも呼ばれる)が見える。この灯籠は下の部分が十字架の形を表していることから、キリシタン灯籠と命名されている。左手には亀島と庭園の左隅には滝口の石組みが見える。この庭はこのコーナーよりのみ全貌を見渡すことが出来る。当院のパンフレットには遠州好みの枯山水と記してあるが、小堀遠州その人が作庭したという説もある。時代的には遠州の時代に作庭されており、当時は遠州の使った庭師が活躍した時代であったので、遠州の作庭手法が盛り込まれていることは間違いのないところである。庭の構成そのものは異なっていても、鶴島、亀島を大規模に造り上げ、滝口の石組みを配して、その手前は白砂としている点では、金地院の庭園とかなりの類似点があると考えられる。

曼殊院 大書院庭園


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