光 悦 寺 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 11月 23, 2020 回廊の下を潜って境内に入り、一巡する。光悦作庭の池の側には、茶席三巴亭がある。そこから進むと光悦垣(臥牛垣)のある大虚庵茶席である。そしてその先には了寂軒茶席がある。そして見晴らしの良いところに立っているのが本阿弥庵茶席という。これ以外にも徳友庵茶席、騎牛軒茶席などがある。ここの紅葉は思ったより楓が少なく、寂しい感じがする。光悦垣などを撮す。光悦寺 太虚庵 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
書 写 山 圓 教 寺 12月 21, 2020 観音菩薩は人間の悩みが様々なために、三十三の身に姿を変えて救済に当たる、最もなじみ深い菩薩である。西国霊場もその数にちなんで三十三ヶ所ある。花山天皇が書写山に来て性空上人に教えを聞き、その帰り道に那智まで観音を祀る由緒の寺を巡ったのが、西国巡礼の始まりになったという。圓教寺の名は花山天皇の命名であるが、それには輪圓具足の教えの寺という意味がある。輪圓とは丸い圓のことで徳を意味し、具足は方所がないと言う意味である。そこより徳において欠けたるところのない、最も成就した状態を意味し、圓教寺はそこより自己完成の道を教える寺と言うことになる。この西国二十七番札所の御詠歌は次の通りである。 はるばると 登れば書写の 山おろし 松の響きも み法(のり)なるらん 平安中期には紫式部、清少納言、和泉式部と我が国を代表する女流文学が、ほぼ同時期に花開いた類稀な時代である。その中で最も恋愛経験が豊富で、多情な閨秀歌人として奔放な歌を詠んだ和泉式部が、この書写山と縁があるのもおもしろい。 和泉式部は父大江雅到の下僚の橘道貞と二十歳前後で結婚、和泉の守であった夫の任地に赴任するのを好まず京に留まり、その間に冷泉天皇の第三皇子為尊親王の愛を受け入れて、道貞と離婚、父からも勘当される。その親王も若くして他界し、次はその弟の敦道親王からの求愛を受けて共に暮らす。ところがその夫もまた若くして亡くなってしまう。その後和泉式部は藤原道長に請われて、一条天皇の中宮彰子の女房として宮廷に入る。和泉式部は中宮彰子のお供で書写山に登ってくるが、性空上人はこれに会おうとしない。和泉式部は上人に会えない無念さを、 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月 と詠んだ。上人はこの歌に感動し、次の歌を詠んで一行を呼び返したという。 日は入りて 月まだい出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法のともしび 和泉式部の歌にこめられた愛憎の葛藤と、無常観からの救済を待つ気持ちの切実さが、性空上人の胸を打ち、この後上人は一行のそれぞれに教えを教示したという。 まず西... 続きを読む
桂 春 院 11月 25, 2020 最初に桂春院を訪れる。当院は織田信長の長男信忠の、そのまた次男である津田秀則により当初見性院として創建された。その後美濃の豪族であった石河(いしこ)貞政により、現在の建物が造られている。石河貞政は幼少より豊臣秀吉に仕えて重臣となり、江州長浜城主となっている。しかし後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い、爾来直参旗本となった武将である。そしてこの石河貞政の法名が、桂春院と言う。 当院の栞によれば「禅宗とは、坐禅の修行によりて単刀直入内に向かつて自己何者ぞ、人生とは、存在とは畢竟何か、と真っ向に追求し、直下に分別意識の極限を飛び超えて真理を体験し、只仏に直参することを生命とする。人間がその存在の根底より呼び起こす魂の郷愁として(絶対成るもの、永遠なるもの)に全人格を投げ出し、そこに新しい自己を発見し、人生の意義に目覚め、一種の安心性、安住性、千万人といえども我行かんという心の悟りを得るもので、それは多くの宗教中最も根源的な、最も純粋な宗教である」とのことである。言わんとするところは何となく判るが、この文章は相当に読みにくいものであると思う。 庭園に関しての記載は、次の通りである。「庭園には遊楽の場を目的とした相対的な美意識の立場にある山荘池泉回遊式鑑賞庭園と、真実の自己を究明する場を目的とした禅精神の影響による知性を超越した絶対的な美の立場である枯山水庭園がある。枯山水の庭は(三万里程を寸尺に縮む)筆法であり、それは石も樹木も白沙も青苔も無限の広さ大きさを持ち、大自然に帰一する禅精神の極高・静寂・脱落・有限性の表徴であり、高度の芸術である」と書かれている。 まず清浄の庭を見る。これは坪庭に井筒を利用して紀州の奇石を配した枯れ滝の庭で、大仙院と同じく渡ろう・宋風窓あり。次ぎに侘びの庭である。これは青苔と石組のみで、余り風情はない。次いで方丈に廻って真如の庭を見る。方丈南側の崖を躑躅の大刈り込みで覆い、その向こうの一段と低いところに石組みを七・五・三に配して、十五夜の満月を表現している庭であるという。そしてそのまた向こうにある生け垣が、背景との境を為している。庭の向こうに二階建ての日本家屋があるのが、残念である。 桂春院の庭園 続きを読む
高 台 寺 11月 10, 2020 銀閣を出て次の目的地である清水寺に向かおうと思ったが、タクシーの運転手さんに高台寺行きを勧められる。今回の夜間拝観は、銀閣寺・高台寺・清水寺の他に、圓光寺もライトアップをやっているそうである。 高台寺の参道を登って、庫裡の左手より入山する。この寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは鷲峰山(じゅぶざん)高台聖寿禅寺という。この寺は秀吉の菩提を弔うために、北政所(禰々)が慶長十年(一六〇五年)に建仁寺の三江和尚を開山として開創したお寺である。徳川家康は淀君、秀頼と対抗する北政所を政治的配慮より支援し、この高台寺の造営に多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗を極めたという。一六〇〇年の関ヶ原の戦いの後、一六〇三年には家康は江戸幕府を開いており、一六〇五年に高台寺が完成、それから一六一四年が大阪冬の陣、そして一六一五年の大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡している。しかし一方禰々は出家して後陽成天皇より高台院の号を賜って、このお寺にて七十六歳の生涯を終えている。 裏手から廻って山内に入ると、そこに開山堂が見える。ライトアップされている開山堂の前は池となっており、東が臥龍池、西が偃月池と言う。偃月池の真ん中に、方丈と開山堂を結ぶ渡廊、楼船廊が架けられてあり、その中ほどに観月台がある。この観月台は柿葺きであり、秀吉遺愛のものという。偃月池には、北に亀島、南の岬に鶴島を造っており、桃山時代を代表する庭園と言われている。作庭はかの小堀遠州である。開山堂より、方丈庭園へ廻る。こちらも唐門を真ん中に据えた枯山水庭園であり、白沙の部分が極めて広い。壁に沿って左右に楓樹、枝垂れ桜などの樹木を植えている。中央手前には三角錐の砂盛りが二つある。ライトアップは、唐門にまず照明が当てられ、そしてその左右が照らされ、それから白沙の中央に置かれた二つのライトが唐門を中心にして照らし出し、そのあと白沙と苔の陸地に沿って置かれたイルミネーションの小さな光が転じ、それから庭の手前に設置されたライトより、三本のレーザー光線が右手と左手に各々放射される。庭を舞台とした光の芸術とも言えるこのライトアップが、時間の経過と共に一つずつ点滅してゆく様をしばらく眺め入る。 高台寺 ライトアップ 続きを読む
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