源 光 庵 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 11月 23, 2020 そこから歩いて、源光庵に立ち寄る。このお寺の正式名称は鷹峰山樹林源光庵と言い、もともとは臨済宗大徳寺派のお寺として一三四六年に創建されたが、元禄時代(一六九四年)に加賀の国より曹洞宗の復古道人卍山(まんざん)道白禅師が当寺に入山し、爾来曹洞宗となっている。源光庵 悟りの窓 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
清 水 寺 成 就 院 11月 09, 2020 清水寺へ向かう。そして三時半過ぎに成就院へ入る。もとは赤松氏の邸宅趾であったという当院は、応仁の乱の後に清水寺を再興した願阿上人により創建されたお寺である。現在の建物は寛永九年(一六三九年)に、徳川家光により再建されている。 庭園の作者は相阿彌が原作者でその後小堀遠州が補修したという説と、松永提督が作者であるという説があるらしい。いずれにしても江戸初期の名庭の内の一つである。雪月花の庭の内の「月の成就院庭園」として有名で、その他にも「典雅温淳体の庭」などとも呼ばれている。そして当院には西郷隆盛と一緒に入水した、月照和尚もかつていたという。 庭は右の音羽山の山畔を用い、湯屋谷と向かいの高台寺山を上手く使った作庭となっている。右の山畔は円形と四角形・長方形の刈り込みを使って被っている。池の中には烏帽子岩と蜻蛉灯籠を配した中島、そしてその右手に籬(まがき)島がある。そして池のこちら側の手前には、瀬戸内海の大島産の自然石で造った・誰が袖形手水鉢がある。そして池の右手の方には、愛らしい形をした手鞠灯籠も置かれている。右手山畔は枯れ滝の石組みで、その手前の池には橋が架かつている。また高台寺山の方には、庭のほぼ真正面に灯籠を置くことで遠近感を出しているようである。高台寺山と音羽山の作る稜線が、実に見事である。背景も借景等も含めてすべてに趣あり。 訪問当日の観庭印象は次の通り。 「鶴島と亀島が、池の中央左右にあり。特に亀島の烏帽子岩と蜻蛉灯籠に焦点が行くようになっている。鶴島は板の橋で山畔式の築山に向かつて繋がっており、右側は右肩上がりの斜面となっている。その後ろにある樹木がやはり山の斜面に沿って右肩上がりに植えられている。そしてそのまた後ろの音羽山も右肩上がりの斜面をなしており、三重の右肩上がりの構図が出来上がっており、それがこの庭の一つのアクセントでもあり、魅力ともなっているように思われた。また蜻蛉灯籠の上の辺りが、稜線の作る逆三角形の頂点となっており、空が景観の上部に逆三角形で拡がって行く。この構図は正伝寺の庭も同様であり、庭の景観を額縁で切り取るとすると、これが安定感を与える構図になるのであろう。そしてこの構図はまた、景観の中央に鑑賞者の焦点を持ってこさせる効果があるのかもしれない。また庭の向こうの刈り込みの生け垣が、右側の右肩上がりの線に対し、横に... 続きを読む
大 徳 寺 本 坊 11月 18, 2020 再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅旨も得て、一三二六年に大徳寺創建となった。その後応仁の乱などで衰退したが、十五世紀後半に一休禅師が再興。桃山、江戸時代にかけて興隆し、現在の威容を為した寺である。一休禅師以降も以天、東渓、古岳、春屋、古渓、玉室、沢庵、江月等の名僧を輩出した。大徳寺本坊へは庫裏より入る。庫裏は大竈の炊き口が並ぶ、重要文化財である。それに続くのが食堂(じきどう)、長い食卓が頭上に並べて架けられている。そして方丈前の板の間には、洋風の机と椅子が置かれてあり、その右手には坪庭と井戸がある。方丈庭園は小堀遠州の作と伝えられているが、この庭園は一六三六年に京都の豪商後籐益勝が方丈を寄進した際に、共に作庭されたという。沢庵和尚が紫衣事件で流罪(一六二七年)となり、その波乱の治まった頃である。作庭の作者は天佑和尚であるという説もある。 南庭は長方形の平庭で、方丈の正面に唐門が設けられている。方丈の縁側を歩くとそこはうぐいす張りとなっており、歩を進める度にきゅっ、きゅっと軽快な音を発する。方丈の庭は正面に日光陽明門のモデルとなったひぐらし門の原型である、花鳥の透かし彫りのある唐門がある。これは元聚楽第の正門で桃山時代に建造されたものである。それを村上周防守が拝領し、大徳寺境内山門の西側にあったものを、明治初年に移築したものである。その前には明智光秀寄進の明智門があったが、これは明治初年に金地院に移建されている。庭の手前は瓦敷きの廊下となっており、右手には門主の入る通用門がある。白沙はまっすぐの縦の線と蛇行線が交互に引かれてあり、その文様が面白い。正面やや右に二つの砂盛があり、その右に石が二つある。右の石は高く白沙から出ているが、左の石は平面のみ白沙から出ている石組の島である。鶴島、亀島を表しているものか。唐門の左右の石組みと木の配置、また左手奥には蓬莱山と滝それに滝壺を表している石(平天石 --- 伏せ石)が白沙に埋め込まれており、興趣あり。またその右側の横に長い石二つも面白い。全体としてバランスが取れており、二つの... 続きを読む
青 蓮 院 11月 15, 2020 青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。自らの皇子をその弟子としたのが門跡の始まりである。皇子覚快法親王が第二世となりそのあとを嗣いだのが、愚管抄で有名な第三世慈圓である。慈圓は台密の巨匠でありながら法然・親鸞を庇護し、法然の寂後その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は、慈圓が法然に与えた院内の一坊跡で、これが知恩院の起源となったのである。また親鸞は九歳の時に慈圓に就いて青蓮院で得度しており、その寂後は院内の大谷にて墓と御影堂が営まれたのが、本願寺の起源である。それ故本願寺の法主は、明治まで当院で得度しなければ公に認められなかったという。また当院の脇門跡として、門跡を称することが認められたという。天台宗の祖最澄、そうして天台座主にして当院第三世の慈圓、その庇護を受けた法然の知恩院、親鸞の大谷本願寺と、仏教の大思想の大きな流れが、この地を源流としていることに想いを馳せると、青蓮院の日本仏教の歴史に於ける位置の偉大さがよく判る。慈圓はまた後鳥羽上皇より託された道覚親王を後継とする考えであったが、承久の乱後鎌倉幕府に阻止された。しかし慈圓没後二十年にして、道覚親王は第六世門主となりまた天台座主となったのである。 思 ひでは おなじ ながめ に かえるまで 心 に 残 れ 春のあけぼの 慈圓 見ぬ世まで 思 ひ のこ さぬ ながめ より 昔にかすむ 春のあけぼの 良経 思 ふこと 誰に のこ して ながめ おかむ 心にあまる 春のあけぼの 定家 塚本邦雄著の「世紀末花伝書」によれば、これらの歌は六百番歌合の中で、「春曙」として詠われたものという。大僧正慈圓の兄は藤原兼実でありその日記「玉葉」が著名であるが、その子が新古今の華・摂政太政大臣藤原良経である。良経にとって慈圓は叔父であり、後鳥羽上皇を軸とする新古今の和歌のサロンにおい... 続きを読む
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