妙 満 寺

 妙満寺は日蓮宗の一派の顕本法華宗の総本山である。そしてこの寺の開基日什上人は、もともと天台宗の人で比叡山三千の学頭にまでなった玄妙能化である。彼は六十七歳の時に日蓮上人の教えに帰依して改宗し、自解仏乗して名を日什と改めて日蓮門下になったという。日蓮上人は釈迦牟尼仏に帰一することを説いており、日什上人はこの日蓮の教えを時の帝、御円融天皇に上奏し「洛中弘法の綸旨」を得ている。そして室町初期の一三八九年に京都の室町に草庵を造り、「妙塔山妙満寺」の号を立てて根本道場とした。その後妙満寺は洛中に寺域を変えながら興隆してきたが、室町後期の一五三六年に二十一坊を誇る大伽藍は天台宗比叡山の僧徒によって焼き打ちに合い、一時泉州堺に逃れた。その後また元の地に復興したが、秀吉の時代に寺町二条に移転された。明治維新の蛤御問の変に端を発した「どんどん焼け」の大火によって、長州屋敷のすぐ側にあった妙満寺は、塔頭十四ヶ院と共に七堂伽藍悉く烏有に帰したという。明治以降徐々に復興したが、今次大戦による強制疎開で塔頭全部を失ってしまった。そして昭和四十三年に現在の岩倉の地に移ってきたのである。

入山すると正面に大本堂があり、その左手に仏舎利大塔が建っている。これはインドのブッダガヤ大塔を模したものである。ブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた地に、紀元前二百年頃にアショカ王が建てた供養塔で、仏教の最高の聖跡と言われている。日本のお寺としては珍しい建造物であり、一階正面には釈尊の座像を安置している。そして最上階には、当時が古来格護してきた仏舎利が安置されているという。

堂内に上がる。この寺は実際にまだ活動しているお寺だとの印象を受ける。最初に「雪月花三名園」の内の一つと言われる「雪の庭」を見る。この庭の築庭は、俳句の祖と仰がれる松永貞徳によるものと言われている。松永貞徳(一五七一―一六五三年)は、連歌から発生した俳諧を完成させ、後の俳聖松尾芭蕉にも多大の影響を及ぼしたと言われる。貞徳は寛永六年に当山を会場として始めて正式な俳諧大興行を執り行い、爾来俳諧は公式の文芸として世に登場することになったという。貞徳はこの庭のほかに清水の成就院の月の庭、北野の成就院の花の庭を造っており、「三成就院の雪月花の庭」として並び称されたが、今は「花の庭」は残っていない。比叡の霊峰を借景とした枯山水の庭であるが、石の組み方などには興趣あるも、借景の庭としては庭の樹木をもっと手入れすべきだと思う。この地に雪は降っていなくとも、比叡の霊峰が雪を頂いているところを眺望すれば、その風趣には他に替え難いものがあるのであろう。

ついで大本堂に行く。ここには「鐘に怨みは数々ござる」で有名な、紀州道成寺の安珍清姫の鐘が安置されている。安珍清姫の物語のあらすじは、次の通りである。

「紀州道成寺は文武天皇妃の宮子姫の奏上により七〇一年に建立されたものであるが、醍醐天皇の御代に(九二八年)紀州室の郡真砂の庄屋庄司清次の館に、朱雀天皇の弟である桜木親王が修験者安珍として泊まった。そのときに安珍と清姫は結ばれ、安珍は熊野参詣の帰途必ず立ち寄ると約束して出発した。清姫は安珍を恋い慕い安珍の帰りを待ち侘びるが、安珍が約束を破り逃げ去ったことを知るや、形相変化し蛇身となって日高川を渡り道成寺まで後を追いかけた。そして釣鐘に隠れた安珍を見て、その胴体で鐘にきりきりと巻き付き火焔を吐き、三刻余りで鐘を真っ赤に焼いてしまった。安珍が鐘の中で黒く焼け死んでいるのを見た蛇となった清姫は、そのまま日高川に身を投じて死んだという」 

この鐘は安珍清姫の伝説以来失われていた鐘を、再鋳したものである。しかし鐘供養の法座に一人の白拍子が現れ、その白拍子が舞い終わると同時にこの鐘は落下し、白拍子は邪身に変じて日高川へと姿を消したという。その後の厄災続きに清姫の祟りと畏れた寺では、この鐘を裏の竹藪に埋めた。この話を聞いた根来攻めの秀吉の武将が、この鐘を掘り起こして京へ持ち帰った。そしてこの鐘は時の妙満寺貫首により、法華経の功力によって宿年の怨念を解かれ、鳴音麗しき霊鐘となり当寺に安置されることとなった。今は道成寺を踊る芸能人などにより、芸道精進を祈念する霊鐘としてあがめられている。お堂から退出して門に向かう途中に比叡山が晴天にくっきりと見えるが、残念なことに電線が門の向こうに真横に架かつており、風情にかける。


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