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法 然 院

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  雨降りで暗くはあったが、山門への登り口は風情がある。山門がやや高くなっており、そこから堂内の白砂壇と池が見下ろせる。白砂壇の中を通る事で、心身を清めて浄域に入る事を意味するようである。本堂は本尊阿弥陀如来を須彌壇に祀ってある。方丈庭園は山畔池泉鑑賞式で、池に石橋が架かりその向うの山畔には階段があり、石の鳥居が見える。三尊石を置いた浄土庭園との事であるが、興趣は少ない。「善気水」が湧いているとの事であったが、これを見るのは逸してしまう。方丈庭園の奥にももう一つお庭があったが、これもあまり感心しない。山内には学者や芸術家などのお墓が多い。著名な人物としては、内藤湖南・九鬼周造・河上肇・谷崎潤一郎・福田平八郎などがいる。 法然院・入山

法 然 院

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  法然院 山門

洛 東 ・ 法 然 院

  最初に法然院に行く。当院は鎌倉時代の始めに、専修念仏の元祖である法然坊源空上人が、鹿ケ谷の草庵を営んだのが始まりと言う。この地で法然は弟子の安楽・住蓮とともに念仏三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた。一二〇六年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、上皇の寵姫であった女房の松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家してしまった。この事が後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、法然は讃岐に流罪、安楽・住蓮は死罪となり草庵は荒廃した。松虫・鈴虫も草庵で自害させられている。実はこの事件の前に、法然の教団による念仏仏教が盛んとなり、信徒も増えてきていた。これを警戒した北嶺 ( 比叡山 ) や南嶺 ( 南都興福寺 ) により、専修(せんじゅ)念仏の全面停止(ちょうじ)の奏上が出されており、ちょうどこのような状況のときに松虫・鈴虫事件が起きて、念仏停止となったのである。そうしてこの事件の折りに、親鸞もまた越後に流されている。草庵は久しく荒廃していたが、江戸初期 ( 一六八〇年 ) に知恩院第三十八世萬無和尚が発願し、弟子の忍より善気山萬無教寺として再興された。浄土宗内の一本山であったが、昭和二十八年浄土宗より独立し単立宗教法人となった。

六 角 堂

  ここは本堂が六角形をしているところから、六角堂と呼ばれているが、正式には頂法寺という。御池と四条烏丸の中間を少し入ったビル街の谷間に、六角堂はある。開基は聖徳太子であり、堂内には太子の念持仏の如意輪観音像が安置されているとのことである。本堂前の礎石は「へそ石」と呼ばれ、古来よりここが京都の中心と言われている。 今日は六波羅密寺、六道珍皇寺、六角堂と六の字の着くお寺を三つも廻ることとなった。特に目的の先の無いこうした日でないと、なかなか回れないお寺ばかりを巡ったが、これも又一つの気の置けないお寺巡りであった。

東  寺

次いで金堂に廻る。今のお堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興されたもので、天竺用の構造法を用いた豪放雄大な気風の漲る桃山時代の代表的な建築と言われ、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れているという。金堂の中に入る。ここには薬師如来を中心に、右に日光菩薩、左に月光菩薩の脇侍を配している。これらの三尊像は桃山時代の大仏師である康正の作で、密教的な薬師如来の姿をとどめていると書かれてあるが、いずれのお顔も宗教的な崇高さを感じさせないのは残念である。薬師如来の台座の周囲に、十二神將を配置していたようであるが、これは残念ながら見落としてしまった。弘法大師は「祈りなき行動は盲動であり、行動なき祈りは妄想である」として、高野山を修禅の道場として開き、そこで得られた知恵を利他行としてこの東寺で実践されたという。弘法大師のように仏の教えを実践で世の中に具現すると言う、宗教の純粋さと情熱に溢れていた仏教の興隆期に祈りをこめて造立された仏像と、やや体制化された仏教のもとで造立された仏像の違いを目の当たりに見るようであった。金堂から出て、五重塔を背景にして写真を撮る。東門の手前まで来たところで、池に蓮の花が咲いているのが目に留まる。それでこの蓮の花を入れて、五重塔を撮す。  

東  寺

  東寺の東門前で下りて、境内に入る。お寺は東が大宮通り、西が壬生通り、そして南が九条通りに面した広大な敷地である。日陰の少ない境内を、まず観智院を探して歩く。この観智院は北大門を出たところにあったが、現在拝観謝絶中であった。そこでまた戻って、講堂と金堂を拝観することとする。 東寺は別名左大寺とも呼ばれ、平安京造営の折に、羅城門の東西に王城鎮護のために建てられた二つの官寺のひとつである。その後八二三年に嵯峨天皇がこの寺を弘法大師空海に下賜されてより、本格的な造営と活動が始まったという。また東寺は一寺一宗制の始まりともなり、空海の真言宗のみのお寺となったのである。鎮護国家・萬民豊楽を祈る教王護国経が修せられ、それが教王護国寺の寺名の由来となった。また空海は高野山を密教修行の地とし、東寺を真言宗開宗の根本道場として社会活動の拠点とされたという。 拝観受付より入る。この東寺の伽藍配置は、南大門から一直線に金堂、講堂、食堂が並んでおり、南面左右には、左手に徳川家光の寄進により竣工した総高五十七メートルの日本最高の五重塔が建ち、右手に密教の法を継承する重要な儀式である伝法灌頂が行われる灌頂院が置かれている。まず講堂内に入る。講堂(国宝)は八三五年に建立されたがその後戦火で消失し、現在のものは一四九一年に再建されたものである。堂内には大小の仏像が整然と並んでおり、これだけ多くの仏像の並んだ御堂を拝観するのは三十三間堂を除いては初めてであり、その見事さに驚かされた。ここには空海の説く密教の教えを表現する、立体曼陀羅(密教浄土の世界)の諸尊が立ち並んでいる。この曼荼羅諸尊は、中央に如来部、右手に菩薩部、左手に明王部が配置され、四隅に四天王それに右隅に梵天、左隅に帝釈天が置かれてある。右手より順に見て行く。まず四天王は東大寺の戒壇院のものと比べると、動きと装飾性が高く、顔もかなり動物的な感じがする。菩薩部には中央に金剛波羅蜜多菩薩(一番新しい仏像)があり、その廻りに右手前より時計回りで、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩ダ(土へん+垂)菩薩が配置されている。この中では金剛宝菩薩が一番であった。お顔全体が凛と引き締まっており、しかも高邁な思惟を思わせる柔和で且つ高雅な眼差し、大きく山なりに反っている眉毛、すっきり押した鼻筋と引き締まった口許。国宝の四菩薩は同時期の作であ

擁 翠 園

今日は先輩より教えていただいた、今開園中の擁翠園を見に行く。地下鉄の鞍馬口駅で降りて、その近くのお店で場所を確認しながら行くと、京都貯金事務センターがある。なかなか立派な門構えであり、門前で擁翠園と郵便貯金のパンフレットを呉れる。それによれば擁翠園の沿革は次の通りである。一四〇五年に室町幕府の管領であった細川満元が、鹿苑寺創建の余材をもってこの地に邸宅と庭園を造園したのが始まりである。細川満元の没後この邸宅は禅寺に改められ、満元の院号に因み「岩栖院」と名付けられた。一六一〇年頃徳川家康により岩栖院の建物は南禅寺に移されてしまい庭園は荒廃していたが、この地を与えられた後藤長乗が、前田利常の助けを借りて邸宅を建て、桂離宮や大徳寺孤蓬庵などの庭園を設計した小堀遠州に依頼して、庭園を改築し直したという。邸宅は庭の大きな松の木に覆われていたため「擁翠亭」と名付けられ、又庭園は「擁翠園」と称されてきた。その後約三百年にわたり当園は後藤家の地として維持されてきたが、明治初年の廃刀令により、代々刀剣類の飾り金具彫刻、小判の鋳造などを手掛けてきた後藤家から持ち主が変わり、昭和二十六年に郵政省の所有するところとなり現在に至っている。 正門は後藤氏が徳川家康から賜った門で、「陣中幕張門」と呼ばれている。正門から入園し苑路を進むと、庭の入り口にある「唐破風鳥居」の所に来る。現在の鳥居は木造であるが、ここにはもともと厳島神社にあった石の鳥居が立っていたと言われる。平清盛が厳島神社にあった石鳥居を兵庫の福原に移し、その後室町時代後期に十二代将軍足利義晴が、この地に移し建てたという。しかし明治初年にその石鳥居は京都御所内にあった九条邸に移されたという。以前京都御苑の南にある厳島神社を見たことがあるが、その折りに石鳥居があったのを思い出す。京都御苑にある厳島神社は清盛が母の祇園女御のために安芸の国から兵庫の福原(築島)に勧請したものを、室町時代に同地へ移建したものだという。厳島神社の隣には、「拾翠亭」と言う九条家の書院風数寄屋造りの邸宅と庭園があり、かつては厳島神社も含めて摂関家である九条家の邸宅内にあったものと思われる。「擁翠亭」と「拾翠亭」と言うように、共に「翠」の字を使っていることから、この二つの邸宅には何か共通項があるのかもしれない。いずれにしてもこうして京都の名所旧跡を廻っていると、