擁 翠 園

今日は先輩より教えていただいた、今開園中の擁翠園を見に行く。地下鉄の鞍馬口駅で降りて、その近くのお店で場所を確認しながら行くと、京都貯金事務センターがある。なかなか立派な門構えであり、門前で擁翠園と郵便貯金のパンフレットを呉れる。それによれば擁翠園の沿革は次の通りである。一四〇五年に室町幕府の管領であった細川満元が、鹿苑寺創建の余材をもってこの地に邸宅と庭園を造園したのが始まりである。細川満元の没後この邸宅は禅寺に改められ、満元の院号に因み「岩栖院」と名付けられた。一六一〇年頃徳川家康により岩栖院の建物は南禅寺に移されてしまい庭園は荒廃していたが、この地を与えられた後藤長乗が、前田利常の助けを借りて邸宅を建て、桂離宮や大徳寺孤蓬庵などの庭園を設計した小堀遠州に依頼して、庭園を改築し直したという。邸宅は庭の大きな松の木に覆われていたため「擁翠亭」と名付けられ、又庭園は「擁翠園」と称されてきた。その後約三百年にわたり当園は後藤家の地として維持されてきたが、明治初年の廃刀令により、代々刀剣類の飾り金具彫刻、小判の鋳造などを手掛けてきた後藤家から持ち主が変わり、昭和二十六年に郵政省の所有するところとなり現在に至っている。

正門は後藤氏が徳川家康から賜った門で、「陣中幕張門」と呼ばれている。正門から入園し苑路を進むと、庭の入り口にある「唐破風鳥居」の所に来る。現在の鳥居は木造であるが、ここにはもともと厳島神社にあった石の鳥居が立っていたと言われる。平清盛が厳島神社にあった石鳥居を兵庫の福原に移し、その後室町時代後期に十二代将軍足利義晴が、この地に移し建てたという。しかし明治初年にその石鳥居は京都御所内にあった九条邸に移されたという。以前京都御苑の南にある厳島神社を見たことがあるが、その折りに石鳥居があったのを思い出す。京都御苑にある厳島神社は清盛が母の祇園女御のために安芸の国から兵庫の福原(築島)に勧請したものを、室町時代に同地へ移建したものだという。厳島神社の隣には、「拾翠亭」と言う九条家の書院風数寄屋造りの邸宅と庭園があり、かつては厳島神社も含めて摂関家である九条家の邸宅内にあったものと思われる。「擁翠亭」と「拾翠亭」と言うように、共に「翠」の字を使っていることから、この二つの邸宅には何か共通項があるのかもしれない。いずれにしてもこうして京都の名所旧跡を廻っていると、歴史上の人物や史跡の思わぬ繋がりが発見できると言う楽しみがあるものだ。 唐破風鳥居から進むと、池に降りる石段の先に舟倉があり、底の低い高瀬舟が繋がれている。さらに進むと、池に面した少し小高いところに四阿(あずまや)がある。ここからは池の面に大文字の火の映るのが見えるようである。そこから十二社稲荷社に行く。石段の側には、織部型のキリシタン灯籠がある。下部にマリア像が刻まれており、キリシタンが密かな信仰の明かりを灯したという。又池の側に来ると、池中に鯱のような形をした石が置かれている。なかなかに風情のある石の形である。そこより池沿いに庭を巡って、池に架かる橋を渡って庭を正面から見られる広場に出るそこには後藤家縁の「後藤のふじ」や白椿「欺雪(きせつ)」などがある。

センターの建物に上がって、番茶を頂きながら庭を観賞する。この庭は江戸初期のものであり、小堀遠州作庭と言われるが、庭の構造・表情からすると遠州作庭にしてはやや柔和すぎると言う感じを受ける。琵琶湖を象った池を中心とした池泉舟遊式庭園であるが、なかなか落ち着いた穏やかな造りのお庭である。特に先ほどの鯱型の石が、この池泉庭園の一つのアクセントになっているように思える。又池の橋を戻って「角井筒」などを見て進むと、「多羅葉」という木がある。この木はモチノキ科モチノキ属で、山地に自棲する常緑喬木である。多羅葉と言う名前はインドで写経に用いられたヤシ科の多羅樹の葉に似ているところから来ており、葉の裏に先の尖ったもので字を書き込むことが出来ることから、ジカクシバ、エカキシバとも呼ばれているという。我が国では約五百年前の戦国時代に、武士がこの葉の裏に文字を書いて便りをしたことから「葉書」の語源になったと言われ、通称「葉書の木」と呼ばれている。

出口で記念葉書を売っているので幾つか買い求めると、俳句を書いた栞をお土産に呉れる。 

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