東  寺

 東寺の東門前で下りて、境内に入る。お寺は東が大宮通り、西が壬生通り、そして南が九条通りに面した広大な敷地である。日陰の少ない境内を、まず観智院を探して歩く。この観智院は北大門を出たところにあったが、現在拝観謝絶中であった。そこでまた戻って、講堂と金堂を拝観することとする。

東寺は別名左大寺とも呼ばれ、平安京造営の折に、羅城門の東西に王城鎮護のために建てられた二つの官寺のひとつである。その後八二三年に嵯峨天皇がこの寺を弘法大師空海に下賜されてより、本格的な造営と活動が始まったという。また東寺は一寺一宗制の始まりともなり、空海の真言宗のみのお寺となったのである。鎮護国家・萬民豊楽を祈る教王護国経が修せられ、それが教王護国寺の寺名の由来となった。また空海は高野山を密教修行の地とし、東寺を真言宗開宗の根本道場として社会活動の拠点とされたという。

拝観受付より入る。この東寺の伽藍配置は、南大門から一直線に金堂、講堂、食堂が並んでおり、南面左右には、左手に徳川家光の寄進により竣工した総高五十七メートルの日本最高の五重塔が建ち、右手に密教の法を継承する重要な儀式である伝法灌頂が行われる灌頂院が置かれている。まず講堂内に入る。講堂(国宝)は八三五年に建立されたがその後戦火で消失し、現在のものは一四九一年に再建されたものである。堂内には大小の仏像が整然と並んでおり、これだけ多くの仏像の並んだ御堂を拝観するのは三十三間堂を除いては初めてであり、その見事さに驚かされた。ここには空海の説く密教の教えを表現する、立体曼陀羅(密教浄土の世界)の諸尊が立ち並んでいる。この曼荼羅諸尊は、中央に如来部、右手に菩薩部、左手に明王部が配置され、四隅に四天王それに右隅に梵天、左隅に帝釈天が置かれてある。右手より順に見て行く。まず四天王は東大寺の戒壇院のものと比べると、動きと装飾性が高く、顔もかなり動物的な感じがする。菩薩部には中央に金剛波羅蜜多菩薩(一番新しい仏像)があり、その廻りに右手前より時計回りで、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩ダ(土へん+垂)菩薩が配置されている。この中では金剛宝菩薩が一番であった。お顔全体が凛と引き締まっており、しかも高邁な思惟を思わせる柔和で且つ高雅な眼差し、大きく山なりに反っている眉毛、すっきり押した鼻筋と引き締まった口許。国宝の四菩薩は同時期の作でありその造りも非常に似通っているにも拘わらず、この金剛宝菩薩の出来が最も良いと思われた。中央の如来部は、大日如来を中心として、右手前より宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿閂(あしゅく)如来がおかれてある。これらの仏像は全て鎌倉以降の作であり、お顔が人形のようであり、神々しさが全くない。平安前期の貞観を過ぎると、如来部、菩薩部の仏像の出来が極端に悪くなってしまうのは、なぜであろうか。次いで明王部を見る。ここは空海が曼荼羅の絵の中から取りだして、仏教世界で始めて創作したと言われる不動明王が中心となっている。右手前より、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が並べられている。これらの明王部の印象も、あまり強くはない。ただし天部については、帝釈天の表情が愁いを帯びており、最も訴えるものがあるようだ。梵天の仏像らしいお顔と比較すると、この帝釈天のお顔は実に人間らしさの滲み出たお顔のように思われる。やや俯きかげんのお顔には、懊悩にじっと耐えているかのような表情が浮かんでいるようである。講堂内は石敷きであり、ヒンヤリとしていてそれに風が流れ込んできて、とても涼しい。この講堂内の立体曼荼羅の諸尊は、講堂の大きさと、一番大きな中央の大日如来、それに金剛波羅蜜多菩薩、不動明王とそれを取り巻く諸尊の大きさが、極めてバランスがとれており、東大寺の法華堂で受けたような不揃いさやお堂と仏像のアンバランスが無くて、統一感に溢れているのが、印象的であった。堂内には二十一の仏像が並び、そのうち十五体は平安前期の仏像ですべて国宝である。この立体曼陀羅の作り上げる迫力には、圧倒される。そしてこれら十五体の仏像を、繰り返される戦火の中で守り続けてきた信仰の強さに心を打たれる思いがする。

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