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金 戒 光 明 寺

  霊鑑寺から、タクシーに乗って金戒光明寺へと行く。運転手さんによれば、金戒光明寺と呼ぶのではなく京都の人は皆「黒谷さん」と呼ぶと言っていた。正式名称は紫雲山金戒光明寺と言う。比叡山で修行を終えた法然が念仏弘通のため山を下りてこの地で唱名念仏を唱えていたところ、紫雲光明の生ずるのを感得したと言う。そこでこの地に一一七五年に草庵を結んだのが当寺の始まりであると言われている。浄土宗鎮西派の本山の一つである。寺名もそれに因んで光明寺となっているが、八世雲空が御光源天皇より「金戒」の二字を賜ったので、金戒光明寺と号するようになった。その後応任の乱で焼失してしまったが、公武の庇護で再建され、現在の堂宇で最も古いのが阿弥陀堂である。これは豊臣秀頼の再建になるものである。大方丈は昭和十年の再建であり、前庭は正面に寝殿造りの門があり、石畳の左右は白砂で蔽われている。そして左右の塀に沿って躑躅の刈込を配した、清浄感溢れる庭である。御影堂では念仏の最中であった。

霊 艦 寺

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  ついで霊鑑寺へと廻る。当時は臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院で、正式名称は円成山霊鑑寺と言う。後水尾天皇の皇女を開基として一六五四年に創建、以降皇女皇孫が入寺された。庭園は山畔池泉鑑賞式で、書院の南面に池がある。面白いのは池の周りの石組みは大きく左側に造られており、池そのものは右半分に設えている事である。池には石橋がありその右手に小さい燈篭を配している。左半分は苔地となっており、その左手にもう一つの燈篭が置かれてある。そして正面に大きな般若型燈篭を置いて、バランスを取っている。池の前は砂地と白砂であるが、清浄感は少ない。この山畔の左手にある石段を登ると、本堂がある。山の斜面一面が苔で覆われていて、これが二段目の庭となっている。 それから更に石段を登ると、裏山の庭となっている。この裏山には一面に椿の木が植えられている。さまざまな椿の木を見ながら庭を一巡する。書院には御所人形が、色々と展示されていた。帰りは池の裏側の庭を巡って、出口から退出する。 霊鑑寺の椿

安 楽 寺

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  法然院より、安楽寺に回る。このお寺は法然が流罪地より戻った後、安楽と住蓮の菩提を弔うために草創されている。しかしその後荒廃を繰り返した後、一六八一年に現在の仏堂が建立されている。正式名称は住蓮山安楽寺という。山門より本堂に至る道の左右が庭となっていて、躑躅の大小の刈込が中心の庭である。安楽・住蓮・松虫・鈴虫を供養する五輪石塔があり、又仏足石もあった。松虫・鈴虫剃髪図や小野小町九体図というのもある。この九体図とは大変な美人といわれた小野小町の死後の腐乱・白骨化して行く状況を九つの画で書き表しているもので、この絵を見させる事で男性に美女に執着する事の空しさを教え、その情欲を押さえさせようとした物だといわれている。 安楽寺

法 然 院

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  雨降りで暗くはあったが、山門への登り口は風情がある。山門がやや高くなっており、そこから堂内の白砂壇と池が見下ろせる。白砂壇の中を通る事で、心身を清めて浄域に入る事を意味するようである。本堂は本尊阿弥陀如来を須彌壇に祀ってある。方丈庭園は山畔池泉鑑賞式で、池に石橋が架かりその向うの山畔には階段があり、石の鳥居が見える。三尊石を置いた浄土庭園との事であるが、興趣は少ない。「善気水」が湧いているとの事であったが、これを見るのは逸してしまう。方丈庭園の奥にももう一つお庭があったが、これもあまり感心しない。山内には学者や芸術家などのお墓が多い。著名な人物としては、内藤湖南・九鬼周造・河上肇・谷崎潤一郎・福田平八郎などがいる。 法然院・入山

法 然 院

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  法然院 山門

洛 東 ・ 法 然 院

  最初に法然院に行く。当院は鎌倉時代の始めに、専修念仏の元祖である法然坊源空上人が、鹿ケ谷の草庵を営んだのが始まりと言う。この地で法然は弟子の安楽・住蓮とともに念仏三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた。一二〇六年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、上皇の寵姫であった女房の松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家してしまった。この事が後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、法然は讃岐に流罪、安楽・住蓮は死罪となり草庵は荒廃した。松虫・鈴虫も草庵で自害させられている。実はこの事件の前に、法然の教団による念仏仏教が盛んとなり、信徒も増えてきていた。これを警戒した北嶺 ( 比叡山 ) や南嶺 ( 南都興福寺 ) により、専修(せんじゅ)念仏の全面停止(ちょうじ)の奏上が出されており、ちょうどこのような状況のときに松虫・鈴虫事件が起きて、念仏停止となったのである。そうしてこの事件の折りに、親鸞もまた越後に流されている。草庵は久しく荒廃していたが、江戸初期 ( 一六八〇年 ) に知恩院第三十八世萬無和尚が発願し、弟子の忍より善気山萬無教寺として再興された。浄土宗内の一本山であったが、昭和二十八年浄土宗より独立し単立宗教法人となった。

六 角 堂

  ここは本堂が六角形をしているところから、六角堂と呼ばれているが、正式には頂法寺という。御池と四条烏丸の中間を少し入ったビル街の谷間に、六角堂はある。開基は聖徳太子であり、堂内には太子の念持仏の如意輪観音像が安置されているとのことである。本堂前の礎石は「へそ石」と呼ばれ、古来よりここが京都の中心と言われている。 今日は六波羅密寺、六道珍皇寺、六角堂と六の字の着くお寺を三つも廻ることとなった。特に目的の先の無いこうした日でないと、なかなか回れないお寺ばかりを巡ったが、これも又一つの気の置けないお寺巡りであった。