金 福 寺

 詩仙堂より金福寺へ廻る。この寺は貞観六年(八六四年)に慈覚大師が国家安泰衆生救済を念じて、自作の聖観音菩薩を祀って創建したお寺である。正式名称は佛日山金福寺と言う。その後荒廃していたが、元禄時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗となった。その頃に松尾芭蕉が、時々鉄舟和尚を訪ねて親交を深めていたので、人々は後丘の庵を芭蕉庵と呼ぶようになったという。時代が降り安永のころ、与謝蕪村一門が庵を再興したものが現在の芭蕉庵である。彼ら蕪村一門はしばしばこの庵で句会を開いたという。また当時は一時期井伊直弼の寵愛を受けたと言われる村山たか女の、晩年の栖家としてもその名を知られている。

狭い石段を登って境内にはいる。方丈に入る前に庭の全面を見る。方丈前の白砂、その向こう側と山畔は刈込みで被われていて、その上に芭蕉庵が見える。庭の左手奥に井戸があり、その傍らに曼珠沙華が一輪咲いているのが印象的であった。庭そのものはどちらかというと、特長の少ない庭である。方丈内を拝観して、芭蕉庵の方へ登り、まず蕪村の墓を見る。これは現代の墓石で作られているためか、俳句俳画で有名な文人蕪村のお墓にしては、やや風情が無さすぎる。蕪村は摂津の国の生まれであるが、江戸に出て修行の後、丹後与謝にて四十歳にして妻を得て、京に移り住み、五十三歳の頃よりやっと世に認められ始めたという。蕪村が再興した芭蕉庵は、きわめて質素なものであるが、そこより京の町の眺望が開けており、俳人達の集う庵としての風趣には富んでいる。

 

金福寺 庭園

         金福寺にての句

 

   うき我を さびしがらせよ 閑古鳥     芭蕉

   耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵      蕪村

   徂く春や 京を一目の 墓どころ      虚子

当寺に入り尼となって妙寿と改名し、明治の世まで生き延びて六十七歳の天寿を全うした村山たか女の生涯は次の通りである。たか女は彦根近郊の多賀社尊勝院の院王を父として生まれ、若くして二条家と九条家に仕えた。十八歳で井伊直亮の侍女となったが、二十一歳の折には侍女を辞して祇園で芸妓となっている。その後二十三歳で金閣寺の寺侍の世話を受け帯刀を産む。埋木の舎に出入りして井伊直弼の寵愛を受けたのは、たか女三十一歳の頃のことであった。その後長野主膳と知り合い、直弼が大老となってからは、京都において主膳を通じて諜報活動を行っていたと言われる。桜田門外の変の二年後に洛西で長州、土佐藩士に捕らわれ、三条鴨川で三日間生き晒しにされたが、助けられてその後尼となる。この時たか女は五十四歳である。明治九年に当寺にて没し、圓光寺に葬られる。舟橋聖一の「花の生涯」でたか女は一躍有名になったと言われるが、こうして年譜を見ると、たか女自身も時代の波に揉まれて、波乱の多い人生を送ったことがよく判る。

  且緩緩(しばらくかんかん)

    柴の戸の しばしと言ひて もろともに

             いざ語らはん 埋火のもと  井伊直弼

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