勝 持 寺(花の寺)

 今日は特休を取っての、花見の一日である。先ず大原野の花の寺(勝持寺)から廻ることとする。阪急の東向日の駅で降りる。そこからのバスは随分と時間があるため、タクシー乗り場に並ぶ。ちょうど同じく花の寺に行こうとしている初老の人が声を掛けてきて、その人と一緒に花の寺に行く。

勝持寺は今日の西山連峰の麓にあり、正式名称は小塩山大原院勝持寺という古刹である。白鳳三年(六八〇年)に天武天皇の勅によって、神変大菩薩・役(えん)の行者が創建したのが始まりで、延暦十年(七九一年)に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建され、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて、本尊とされたと言う。承和五年(八三八年)仁明天皇の勅により、頭院四十九院を建立したが、応仁の乱の兵火に遭い、仁王門をのぞいて全てが焼失した。

参道の石段を登り入山して、庫裡にある受付から小門を潜って、本堂前に出る。本堂正面に立って境内を見渡すと、桜の木々が立ち並んであるが、まだどの木にも花は咲いていない。やはりここは西山の山裾にかかっており、桜の開花は遅いのであろう。境内を廻って行くと、鐘楼のそばに西行桜と書かれた立て札がある。その木はあまり古木という感じのしない背の高い木で、花が三分咲き位に咲いている。鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保延六年(一一四〇年)にこの寺において出家し、名も西行と改めて庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していたという。世人はその桜を西行桜と呼び、爾来当寺も花の寺と呼ばれるようになったという。

十二時に瑠璃光殿の拝観予約をしていたので、本堂に上がり瑠璃光殿に入る。拝観者は他にいず、一人で住職とおぼしき人の説明を聞く。中央に本尊薬師如来座像(重文)があり、日光、月光菩薩や十二神將、金剛力士像などが祀られている。この薬師如来像は丸額のような形をした背光を持っており、優しく柔和な感じの仏様である。穏やかなほほえみがお顔全体に漂っていて、目鼻は細く、小さく引き締まった口許をしている。右肘を曲げて体の正面で柔らかく印を結び、左手は薬壺を持っている。衆生のために祈りながらも、自らも又恍惚の法悦の世界に入っていっているような、そんな感じのする如来像である。

正面の仏像の説明の後、お坊さんが収蔵庫の電気を消して、室内を真っ暗にする。そうしておいて左手にある如意輪観世音菩薩の厨子内の電気を入れ、それからおもむろに厨子の扉を開く。厨子の中からは願徳寺宝菩提院よりの客佛である菩薩半跏像(国宝)が、金色の光の中眩しく浮き上がってくる。この菩薩像は先日読んだ吉村貞司の「愛と苦悩の古仏」と言う本で、相良親王の怨霊と関係があるのではないかと説かれている。桓武天皇は秦氏を母に持つ藤原種継を造長岡宮使として、長岡京を造営したが、その種継の暗殺により長岡京の造営は頓挫し、暗殺事件に連座して早良親王は皇太弟を廃され乙訓に幽閉され、淡路島に流される前に食を断って死んだ。この事件の背景には、実子安殿(あて)親王(平城天皇)を後継者としようとする桓武天皇の意志が働いていると見られている。その後早良親王の霊が祟りとなり、その荒ぶる悪霊を鎮めるために菩薩像は造られたのではないか、と吉村貞司は観じている。しかし目の前に拝するこの佛は、柔和なお姿でありながらも、その体内から張りつめた強い意志が滲み出ているようなお姿である。祈るが如き、怒りをぐっと押さえ込んでいるかの如き厳しさが、佛全体から迸り出てくるような感じを受ける。秋篠寺の技芸天と同じ頭髪、瞼を薄く開けてやや下方を見つめながらも、その実は遥か遠くにある自らが追い求める理想を見つめているような眼差し。ぐっと八の字に結ばれた唇は、何がどうあろうとも決して動じることはないと言う、固い決意を表しているようだ。なだらかな肩と、ふくよかな胸の舌の腰回りは引き締まっており、その下の組まれた左足そして垂れ下がっている右足全体に掛かる法衣の広がりと装飾性。これが又この座像の重心を低め、極めて安定した印象を与えている。お顔はその体全体に漲る厳しく固い決意の故に、更に崇高に見えるのであろうか。吉村貞司はその本の中で、「決意の極まるところ、如何に美しいか」「この御仏の美しさは、そうした精神の清冽さであり、浄化の決意であった」「私たちはこの御仏にため息をもらす。それは精神の美しさに感動したときのため息である」と書いているが、まさに同感であった。花の寺に来て、桜はなくともこの菩薩像を見ることが出来ただけで、極めて大きな収穫であった。

 

  み仏の 瑠璃の光の 花の寺

        めぐみもひらく ときにあふかな

                    山城西国六十二番

勝持寺 西行桜


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