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随 心 院

  次に随心院を訪れる。このお寺は奈良街道の東に位置しており、勧修寺からは車で近い。当山は真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より八代目の仁海僧正が一条天皇に奏請して九九一年に開基したもので、古くは牛皮山曼荼羅寺と称した。仁海の夢に亡き母が牛となって生まれ変わっているのを見、その牛を鳥羽の辺りに訪ね求めて飼育したが、日なくして死したため、悲しんでその牛の皮に曼荼羅の尊像を描いて本尊と為したのが、その名称の謂れである。仁海僧正はまた宮中の帰依を得て、神泉苑で請雨の法を九度修し、霊験あって降雨したことから、雨僧正とも呼ばれている。当山の五世僧俊阿闍梨のときに、子房として随心院を建立(一二二九年)、七世親厳大僧正の時に堀河天皇より門跡の旨を賜っている。その後承久、応仁の乱で灰燼に帰したが、一五九九年に本堂が再建されている。 当院は庫裡にビデオがあり、拝観前にビデオで当院の由緒の説明がある。本尊如意輪観音は秘仏であるが、阿弥陀如来、小野小町文張地蔵、卒塔婆小町坐像などを見ることが出来た。古来小野と呼称された当地は、小野氏の栄えたところであり、小町は小野篁の孫であった出羽国司、小野良実の娘である。  「小町は舞姫として宮中の后宮にあり、容貌秀麗にして一度笑めば   百媚生じ、また和歌は巧みにして悽艶、女流第一の名手たり」 と書かれている。書家小野道風は小町の従兄に当たるという。小町は平安初期に仁明天皇が東宮の折より崩御されるときまで側近に奉仕し、その盛艶優美な容貌、詩歌の巧妙さにより寵幸を一身に受けて更衣として仕えた。仁明天皇は深草の山陵に葬られ深草帝と称せられたが、小町も間もなく齢三十にして小野の里に引き籠もった。また当地で語り継がれる有名な伝説として、「深草少将、百夜通い」がある。これは深草の少将が小町を慕って雨の日も雪の日も小野の里に通ったが、最後の一夜を前に降る雪と発病にて世を去った話である。このとき小町は榧(かや)の実にて数を数えたと言われ、後にその実は当地に蒔かれたという。 本堂奥に池泉鑑賞式の庭園がある。右手が刈り込みと松の庭で、奥に池泉庭がある。優しい女性的な庭であるが、やや特長に欠ける。池の左手には小さな滝の石組みが見られた。本堂内の庭に咲いている黄色い小さな花をつけている山茱萸(さんしゅゆ)が、印象的であった。院外に小野梅園があったが

勧 修 寺

  勧修寺は昌泰三年(九〇〇年)に醍醐天皇が創建。母堂藤原胤子(たねこ)の菩提を弔うために開いたお寺であり、代々法親王が入山する門跡寺院である。書院、宸殿は明正天皇(一〇九代一六二〇年頃、後水尾天皇の次 ) の旧御殿を賜って、移築したものである。内部には土佐光起、光茂の襖絵があるようである。書院前には樹齢年と言われるハイビャクシン(桧科の常緑灌木)が這い、水戸光圀公寄進による雪見灯籠(一名、勧修寺灯籠)がある。庭園は勧修寺氷池園と呼ばれ、氷室の池を中心に造園されていて、池泉を中心とする回遊式庭園である。古く平安時代には毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによりその年の五穀豊穣を占ったと言われており、京都でも屈指の古池と呼ばれている。書院の前面に庭があり、その向こうが浮島のある池となっている。芝生の右手には二層のお堂があり、面白い形をした石も置かれている。池は蓮池である。お堂の側より池の周囲をぐるりと回遊。庭の奥の方は荒れたままとなっており、蓮の茎も高く手入れが不十分である。庭園の管理というのも、なかなかコストがかかり大変な事なのであろう。 ================= 桜を求めて洛南山科に向かう。五条より清水寺を左手に見つつ、国道一号線で山越えし、山科の里に入る。その途中に桃の花が街道沿いに、何本も咲いているのを見る。 勧修寺は既に一度訪れているが、ハイビャクシンと灯籠をその折には見過ごしてしまっている。当寺は元来宇治の大領、宮道弥益(みやじいやます)の邸宅があったところである。内大臣藤原高藤(たかとう)が当地で狩をしたおりに雷雨に見舞われ、宮道邸に泊まった。その時に高藤は弥益の娘、列子(れつこ)と結ばれる。その後再び当地を訪れた高藤は、列子に子が産まれたことを知り、列子を正妻として迎えた。その子が胤子(たねこ)であり、後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産んだ。九〇〇年に醍醐天皇は、母胤子の菩提を弔うべく宮道邸を寺と改め、その法名を取って勧修寺としたのである。 書院前庭を見る。園地方向を生垣で仕切った平庭で、樹齢七百五十年のハイビャクシンが地を這って生い茂り、奥に光圀公寄進の石灯籠があり、ハイビャクシンの廻りには石組みが造られている。氷室の池正面に立つ。中島は刈り込みで構成されており、右手に大悲閣がある。池には蓮の茎のみが出ており

宇 治 橋

  平等院門前の茶店で、ぜんざいを頂く。そこから宇治川沿いに出て、網代木の道を歩く。茶の会館もあり、そこに入って源氏物語の宇治十帖の絵葉書を買いお茶を飲む。会館から出て歩く。このあたりは料亭、旅館が建ち並んでいる。川沿いに河床を持っている料理旅館もある。喜撰法師に因んだものか、喜撰橋というのが塔の島へと架かつている。橋の手前から見る下流の眺めが美しい。塔の島には十三重塔があり、これは昔大水で流され永らく川底に沈んでいたものを、引き上げて建て直したものだそうである。一一八〇年の以仁王、源頼政の平氏に対抗しての挙兵の際の決戦、宇治川の戦いを記念する碑もある。橘島より橘橋を渡り、宇治橋の袂へ出る。宇治橋も今は鉄筋となり、欄干もピンク色で三の間も風情がない。宇治橋を特徴づけているこの三の間は橋姫を祀ったものだと言うが、またここからは秀吉が利休に命じて桶でお茶の水を汲んだと伝えられている。橋を渡ったところに源頼政の家来の通円が建てた通円茶屋があり、此の通円茶屋の主人が代々宇治橋の橋守を兼ねていたようである。太閤秀吉は宇治に来る度に、此の通円茶屋でお茶を所望したという。 岐路は通円茶屋の道の反対側にある京阪宇治駅より、中書島経由で帰る。

県 神 社

  裏門より出て右折して県神社に行く。県神社縁起によると、当社は天照大神の天孫にあたる天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこににぎのみこと)の妃・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を奉祀し、神代以来当地の地主神であった。アガタは上古の県の守護神であったことを示す。後冷泉天皇の御代(一〇五二年)、関白頼通の平等院建立にあたり、同院総鎮守となり藤原氏の繁栄を祈誓した。明治維新までは、平等院が三井寺門主の開眼にかかり天台宗に属していたことにより、大津の三井寺圓満院の管理下にあったが、神仏分離令でその管理よりはずれている。    わがたのむ 県の宮の ます鏡           くもらぬ影を あふぎてぞ待つ                 中原師光朝臣  新続古今和歌集 御祭神略伝によれば、木花開耶姫命はまたの御名を神吾田鹿蘆津姫命(かみあがたあしつひめのみこと)と言い、大山祇命(おおやまつみこと)の第二子であった。天孫ニニギノミコトが日向(ひるが)に降臨され、一日笠狭(かささ)の碕に至り海浜に遊幸された折り、一人の美女をご覧になった。それがコノハナサクヤヒメであり、直ちに召して妃とされた。姫命はただ一夜にして孕み給うたので、天孫がこれを疑われた。姫命はこれに対し「吾が生める若し天神の御子にあらずば、必ず灯け亡せなむ。是れ若し天神の胤(みこ)なれば、害(そこな)わるる事無けむ」と言って、戸のない産室を造り、その室に入って火を放たれたところ、産み給うた子、三柱すべて健在であった。父命は喜んで狭名田(さなだ)の稲を用いて、天甜酒あめのたむさけ)を造り祝賀した。これより父命を酒解神(さけときのかみ)と言い、姫命を酒解子神と呼ばれ、ニニギノミコトは造酒の祖師と呼ばれることとなった。また姫命は貞操の女神として富士に奉仕し、その崇高美を尊び、清く美しく家運隆盛と商売繁盛を祈誓してその守護を乞い、結婚安産の守護神として敬われることとなった。県神社の木花開耶姫への信仰は「一事一願成就(ねがいごとかなう)」と言われ、   一、 商売繁盛、家内安全 一、 良縁祈願 一、 安産祈願 一、 諸病平癒 にたいする祈願への霊験あらたかである。県祭は江戸時代に、商都大坂、堺を中心とする町人階級の勃興とともに、きわめて庶民的な「人気の神様」としての信仰と結びつき、六

平 等 院

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JR玉水駅で相当長く電車を待って、やっと宇治方面へと向かう。JR宇治駅で降りる。この宇治には小学校一年生の時に、県祭りの折に父親に始めて連れられて来て以来二度訪れており、今回が四度目である。二度目は大阪外国事務課に勤務していた頃に、父母と甥坊を連れて訪れており(二十六歳)、三度目は新婚時代に石山寺の帰りに妻と平等院を見に来たときである(二十八歳)。それから二十年後の今年、この宇治の町を歩くというのは感慨深いものがある。宇治橋通りに出て、宇治橋の方へと歩く。通りには左右ところどころ、お茶のお店がある。宇治茶の老舗、上林のお茶の記念館の前を通る。宇治橋のふもとより菓子舗と茶舗の並んでいる平等院通りを歩き、平等院へと入る。 平等院は平安時代後期(一〇五二年)の藤原氏全盛時代に、藤原頼通が父道長の宇治の別荘を寺院に改築したものである。鳳凰堂は創建当時に建立されたものとして、唯一残っている阿弥陀堂の別名である。創建当時はこの阿弥陀堂の他に、堂宇が宇治の町の大半に渡り立ち並んでいた広大な寺院であった。しかし建武の足利・楠の戦の折に(一三三六年)、建物の大半が焼失し、現在は阿弥陀堂、観音堂と鐘楼が残るのみとなっている。庭園はお堂の前の阿字池と、宇治川の清流、そしてその向こうの山々を借景として取り入れた、貴族好みの平安時代庭園の遺構である。 鳳凰堂の右手より、御堂内に登る。堂内には本尊阿弥陀如来が鎮座ましまし、豪華な天蓋、天井、板壁の絵画、それと長押の雲中供養菩薩(五十二体)と共に、まさに阿弥陀浄土の世界を創り上げている。阿弥陀如来は仏師定朝作の国宝であり、寄木造漆箔で温厚な中にも気高いお顔をされている。天蓋垂板の木彫透かし彫りは、藤原期の工芸の技術の高さを示しており誠に見事である。壁画は色も褪せて見る影もないが、創建当時の金色に輝く御仏と天蓋、鮮やかな色調の天井、柱と壁画、それに長押に浮遊する金色の雲中供養菩薩の姿を想像すると、往時の堂内はまさに極楽浄土を目の当たりにするかの如き空間を創り上げていたのであろう。梅原猛は仏教には本来浄土思想はなかったと書いているが、日本人の体質には浄土思想が適合しているのかもしれない。御堂の縁側に座して、庭を見る。白沙を敷きつめた真正面に灯籠を配置してあり、その向こうに池が広がる。そして樹木の向こうに堰堤があり、宇治川の向こう岸の景観と山並

普 賢 寺(観 音 寺)

  酬恩庵入口よりバスで近鉄の新田辺に出て、三山木の駅まで行く。そこでタクシーを捕まえて、普賢寺へと到着する。普賢寺は天平時代に聖武天皇の発願により良弁僧正が創建(七三〇年頃)、法相三論華厳等兼学の寺で、息長山普賢教法寺と称した。本尊は十一面観世音菩薩であり、天平十六年に安置されたものである。別名大御堂観音寺とも呼ぶが、現在はこの大御堂のみが残っている。 ちょうど母娘三人の親子連れが拝観を申し出ており、それに便乗して御堂に入る。住職とおぼしき人が厨子を開扉して、十一面観音を拝観する。このお寺の十一面観音は、ふくよかでありながら目鼻立ちがすっきりとしまった光々しいお顔、胸から腰にかけての張りのある肉感、肩から腰、膝にかけての天衣のなだらかな曲線、渡岸寺の十一面観音のほうがやや八頭身に近い感じはあるが、全体的に見れば共通点が多いのではないかと思われる。飛鳥時代のほっそりとした仏像が、天平時代にはより立体的な、ある意味でギリシャ彫刻的となり、またそれが平安時代に入ってやや太めの仏像へと変化しているようである。これは中国の仏像の様式を多分に受けているためであろう。薬師寺の日光、月光菩薩との共通点も見られると思う。お寺の略縁起によれば、十一面観音は四種功徳、十種勝利と言って、人々の苦難を救う観音の内でも、特にすぐれた御利益があり、無病息災で不時の災難を免れ、種々の祈願を成就せしめる力を持って折られるとのことである。また当寺は藤原氏の氏寺興福寺の別院であったことから、後年は藤原氏の外護を受けたようである。 母娘三人を三山木までタクシーに乗せて、そのままJRの玉水まで行く。木津川東岸の町で、小野小町が没したところと言われている。    色も香も なつかしきかな 蛙なく            井出の渡の 山吹の花   小野小町

酬 恩 庵 一 休 寺

JR大阪駅より京橋に向かう。大阪駅よりはJR奈良線(大和路線)も出ており、今度奈良に行くときは、この線も利用してみようと思う。京橋より学研都市線で田辺へ。この線は大東市、四条畷市と北東に登り、京都府田辺町に入って行く。郊外ののどかな風景の中を走って、田辺に着く。駅は小さく酬恩庵への案内のカンバンも、一つしか出ていない。電車に乗ってこのお寺を訪れる人は、きっと少ないのだろう。表示に従って進むと、旧街道とおぼしき道にでる。その道を右折して、一休寺の入口へ向かう。旧街道よりは徒歩で約十分ほどの山裾に、酬恩庵一休寺がある。 当寺のもともとの名前は妙勝寺で、鎌倉時代に臨済宗の大応国師(南浦紹明なんぽじょうみょう)が創建した由。その後戦火にかかって復興できずにあったものを、一休禅師が一四五〇年代に再興したとのことである。酬恩庵の名前の由来は、大応国師の恩に酬いることから来ている。 総門からの参道はやや登り坂となっており、風情がある。総門を入ったところに一休禅師の墨跡で「諸悪莫作、衆善奉行」の碑が建っている。一休禅師には又「佛界易入、魔界難入」という有名な言葉がある。川端康成がこの一休の言葉にとらわれたのは、一休禅師の仏界への求道と森女との愛欲の二面性を持つ生き様に、康成も又惹かれていたからであろうか。魔界と言えば康成は梅原猛の「地獄の思想」を愛読しており、又一方康成の死後に梅原が川端康成論を書いたことも考え合わすと、一休 --- 川端 --- 梅原と一つの類似した思想、人間性の流れがあり、それに又惹かれている自分を思うと面白いものである。 参道に沿って登り、入館受付を右に曲がると御廟所がある。一休禅師は人皇百代後小松天皇の皇子であるため、この御廟所は宮内庁の管轄となっている。残念ながら廟及びその前庭は見られなかった。方丈に入る。これは前田利常が大阪の陣の折、当寺を訪ねその荒廃ぶりを目にして、一六五〇年に再建したものである。内部の襖絵は狩野探幽斎守信の筆であり、方丈には一休禅師の木像が安置されている。方丈に開山の木像を置くのは如何かとその時は思ったが、禅寺での慣習であるようだ。昔の高僧は自らの肖像画を描かせて残しており、これを頂相(ちんぞう)と呼ぶが、一休も又頂相、木像を造らせている。これが禅宗の習いとしても、かなり自己顕示欲の強い人物であったのではないか、と言う