県 神 社

 裏門より出て右折して県神社に行く。県神社縁起によると、当社は天照大神の天孫にあたる天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこににぎのみこと)の妃・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を奉祀し、神代以来当地の地主神であった。アガタは上古の県の守護神であったことを示す。後冷泉天皇の御代(一〇五二年)、関白頼通の平等院建立にあたり、同院総鎮守となり藤原氏の繁栄を祈誓した。明治維新までは、平等院が三井寺門主の開眼にかかり天台宗に属していたことにより、大津の三井寺圓満院の管理下にあったが、神仏分離令でその管理よりはずれている。

   わがたのむ 県の宮の ます鏡

          くもらぬ影を あふぎてぞ待つ

                中原師光朝臣  新続古今和歌集

御祭神略伝によれば、木花開耶姫命はまたの御名を神吾田鹿蘆津姫命(かみあがたあしつひめのみこと)と言い、大山祇命(おおやまつみこと)の第二子であった。天孫ニニギノミコトが日向(ひるが)に降臨され、一日笠狭(かささ)の碕に至り海浜に遊幸された折り、一人の美女をご覧になった。それがコノハナサクヤヒメであり、直ちに召して妃とされた。姫命はただ一夜にして孕み給うたので、天孫がこれを疑われた。姫命はこれに対し「吾が生める若し天神の御子にあらずば、必ず灯け亡せなむ。是れ若し天神の胤(みこ)なれば、害(そこな)わるる事無けむ」と言って、戸のない産室を造り、その室に入って火を放たれたところ、産み給うた子、三柱すべて健在であった。父命は喜んで狭名田(さなだ)の稲を用いて、天甜酒あめのたむさけ)を造り祝賀した。これより父命を酒解神(さけときのかみ)と言い、姫命を酒解子神と呼ばれ、ニニギノミコトは造酒の祖師と呼ばれることとなった。また姫命は貞操の女神として富士に奉仕し、その崇高美を尊び、清く美しく家運隆盛と商売繁盛を祈誓してその守護を乞い、結婚安産の守護神として敬われることとなった。県神社の木花開耶姫への信仰は「一事一願成就(ねがいごとかなう)」と言われ、 

一、商売繁盛、家内安全

一、良縁祈願

一、安産祈願

一、諸病平癒

にたいする祈願への霊験あらたかである。県祭は江戸時代に、商都大坂、堺を中心とする町人階級の勃興とともに、きわめて庶民的な「人気の神様」としての信仰と結びつき、六月五日から六日の未明にかけて行われる。すなわち商人及び人気商売の商売繁盛祈願と良縁・安産祈願の無礼講として六月上旬の深夜に、暗黒の中で行われるのである。

   宇治橋の 神は茶の花 咲くや姫    宗因

   宇治船に 寝惜しむ県 祭かな     春雨

県井は境内にある古歌に詠まれた井戸である。

   都人 きても折らなむ 蛙なく

          あがたの井戸の 山吹の花    橘公平女 

                         (後撰和歌集)

   山吹の 花もてはやす 人もなし

          県の井戸は 都ならねば     妙光寺内大臣

                         (新葉和歌集)

県神社を出て、県通りを歩き左折して宇治橋通りに出る。県神社で聞いた辻利本店の所在を、再度そのあたりの煙草屋で聞く。するとちょうどその煙草屋の正面の約五百坪ほどの駐車場が、辻利本店跡であるとのことであった。現在はその場所から少し行ったところに、小さな店で辻利一茶補とある。休みの日なので店は閉まっていたが、その店先のショウウィンドウに亡父の描いた達磨の瓢箪が飾られており、思いがけず亡父に出会ったような気がする。

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