平 等 院

JR玉水駅で相当長く電車を待って、やっと宇治方面へと向かう。JR宇治駅で降りる。この宇治には小学校一年生の時に、県祭りの折に父親に始めて連れられて来て以来二度訪れており、今回が四度目である。二度目は大阪外国事務課に勤務していた頃に、父母と甥坊を連れて訪れており(二十六歳)、三度目は新婚時代に石山寺の帰りに妻と平等院を見に来たときである(二十八歳)。それから二十年後の今年、この宇治の町を歩くというのは感慨深いものがある。宇治橋通りに出て、宇治橋の方へと歩く。通りには左右ところどころ、お茶のお店がある。宇治茶の老舗、上林のお茶の記念館の前を通る。宇治橋のふもとより菓子舗と茶舗の並んでいる平等院通りを歩き、平等院へと入る。

平等院は平安時代後期(一〇五二年)の藤原氏全盛時代に、藤原頼通が父道長の宇治の別荘を寺院に改築したものである。鳳凰堂は創建当時に建立されたものとして、唯一残っている阿弥陀堂の別名である。創建当時はこの阿弥陀堂の他に、堂宇が宇治の町の大半に渡り立ち並んでいた広大な寺院であった。しかし建武の足利・楠の戦の折に(一三三六年)、建物の大半が焼失し、現在は阿弥陀堂、観音堂と鐘楼が残るのみとなっている。庭園はお堂の前の阿字池と、宇治川の清流、そしてその向こうの山々を借景として取り入れた、貴族好みの平安時代庭園の遺構である。

鳳凰堂の右手より、御堂内に登る。堂内には本尊阿弥陀如来が鎮座ましまし、豪華な天蓋、天井、板壁の絵画、それと長押の雲中供養菩薩(五十二体)と共に、まさに阿弥陀浄土の世界を創り上げている。阿弥陀如来は仏師定朝作の国宝であり、寄木造漆箔で温厚な中にも気高いお顔をされている。天蓋垂板の木彫透かし彫りは、藤原期の工芸の技術の高さを示しており誠に見事である。壁画は色も褪せて見る影もないが、創建当時の金色に輝く御仏と天蓋、鮮やかな色調の天井、柱と壁画、それに長押に浮遊する金色の雲中供養菩薩の姿を想像すると、往時の堂内はまさに極楽浄土を目の当たりにするかの如き空間を創り上げていたのであろう。梅原猛は仏教には本来浄土思想はなかったと書いているが、日本人の体質には浄土思想が適合しているのかもしれない。御堂の縁側に座して、庭を見る。白沙を敷きつめた真正面に灯籠を配置してあり、その向こうに池が広がる。そして樹木の向こうに堰堤があり、宇治川の向こう岸の景観と山並みが見える。実に心を落ち着かせる眺望である。

御堂を出て、池の反対側に廻る。樹木が邪魔となって、鳳凰堂を完全に見渡せるところが対岸の一カ所しかないのは、残念である。鳳凰堂の名の由来は、屋根の上の鳳凰からなのか、それとも建物そのものがあたかも鳳凰が翼を拡げた姿に似ているからなのかは、パンフレットなどにも書いてない。しかしすべての屋根の勾配が緩やかで、下に行くほどに反り返っており、屋根がまさに鳳凰の翼にように思われる。当行の迎賓館に平山郁男画伯の「平等院鳳凰堂」があるが、此の優美な建物は他に比類無く、日本が国宝として世界に誇りうるものであろう。此の建築様式に似たものは見たことがないが、これは果たして中国からの渡来のものであるのか、はたまた日本オリジナルのものなのか。藤原頼通は池に面した館より、阿弥陀仏の尊顔を毎日拝していたという。藤原家の栄華のお陰で、今日我々も此の優美な建造物を愛でることが出来るのである。その意味で歴史においては、富の集中無くして、後世に残るような偉大な文化は生まれないのである。

御堂の後方の最勝院の不動堂の前には、源三位頼政のお墓もある。又鐘楼の鐘は日本三大鐘の一つで、三井寺のそれは音で、そして平等院の鐘は形で日本一とのことである。

平等院 鳳凰堂

 

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