勧 修 寺

 勧修寺は昌泰三年(九〇〇年)に醍醐天皇が創建。母堂藤原胤子(たねこ)の菩提を弔うために開いたお寺であり、代々法親王が入山する門跡寺院である。書院、宸殿は明正天皇(一〇九代一六二〇年頃、後水尾天皇の次)の旧御殿を賜って、移築したものである。内部には土佐光起、光茂の襖絵があるようである。書院前には樹齢年と言われるハイビャクシン(桧科の常緑灌木)が這い、水戸光圀公寄進による雪見灯籠(一名、勧修寺灯籠)がある。庭園は勧修寺氷池園と呼ばれ、氷室の池を中心に造園されていて、池泉を中心とする回遊式庭園である。古く平安時代には毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによりその年の五穀豊穣を占ったと言われており、京都でも屈指の古池と呼ばれている。書院の前面に庭があり、その向こうが浮島のある池となっている。芝生の右手には二層のお堂があり、面白い形をした石も置かれている。池は蓮池である。お堂の側より池の周囲をぐるりと回遊。庭の奥の方は荒れたままとなっており、蓮の茎も高く手入れが不十分である。庭園の管理というのも、なかなかコストがかかり大変な事なのであろう。

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桜を求めて洛南山科に向かう。五条より清水寺を左手に見つつ、国道一号線で山越えし、山科の里に入る。その途中に桃の花が街道沿いに、何本も咲いているのを見る。

勧修寺は既に一度訪れているが、ハイビャクシンと灯籠をその折には見過ごしてしまっている。当寺は元来宇治の大領、宮道弥益(みやじいやます)の邸宅があったところである。内大臣藤原高藤(たかとう)が当地で狩をしたおりに雷雨に見舞われ、宮道邸に泊まった。その時に高藤は弥益の娘、列子(れつこ)と結ばれる。その後再び当地を訪れた高藤は、列子に子が産まれたことを知り、列子を正妻として迎えた。その子が胤子(たねこ)であり、後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産んだ。九〇〇年に醍醐天皇は、母胤子の菩提を弔うべく宮道邸を寺と改め、その法名を取って勧修寺としたのである。

書院前庭を見る。園地方向を生垣で仕切った平庭で、樹齢七百五十年のハイビャクシンが地を這って生い茂り、奥に光圀公寄進の石灯籠があり、ハイビャクシンの廻りには石組みが造られている。氷室の池正面に立つ。中島は刈り込みで構成されており、右手に大悲閣がある。池には蓮の茎のみが出ており、風情に欠ける。蓮の花咲く時季には、この池も見事になるであろうと思う。正門を入ったところにある石楠花と木蓮が、美しい花を咲かせていた。

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