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戒 壇 院

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  三月堂を出て、なだらかな坂道を下り、大仏殿の前を通って戒壇院へと向かう。東大寺には昔何度か来たことがあるが、この戒壇院を訪れるのは始めてである。この院は戒律の第一人者であった唐僧鑑真が、勝宝六年に大仏殿の前に戒壇を設けて、聖武天皇以下百官公家四百人に戒を授け、同年に孝謙天皇の宣旨により造営されたものである。戒壇院はその後火災により何度か再建され、現在のものは享保時代(一七三二年)に再建されたものである。 院内に入ると、壇の中央に多宝塔が安置され、四隅に四天王が配されている。当院の四天王はもともと銅製のものであったがそれが失われたため、現在は東大寺の中門堂から移された四天王が置かれている。四天王は仏法の守護神として我が国においては飛鳥時代から信仰があり、天平時代に最高潮に達した。四天王が身に纏う甲冑は遠く中央アジアの様式である。静にして動、動にして静のこの四天王は、彫刻に於ける理想を実現し得たものとして、世界最高レベルを行くものと評価されている。これらの四天王の中では、一番動きの少ない広目天に心惹かれた。他の三天部には、その甲冑の下の筋肉にまで力が漲っていると感ずるが、この広目天については左手に書巻を持ち、右手に筆を持った自然な肢体をしており、筋肉もどちらかと言えば柔らかさを保っているように思える。しかしその額を寄せ目を狭めて、遠くを見据えるかの如き顔の表情からは、仏法を守らんとする強靱な意志が感じられ、それが我々を感動させるのではないかと思った。先の法華堂と比すると、こちらの方がより濃密で静謐感のある仏法の空間であるという思いが強い。 東大寺 戒壇院

法 華 堂(三月堂)

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  ついで三月堂に入る。この建物は天平一二年(七四〇年)の頃の創建と考えられており、東大寺最古の建物である。この辺り一帯に聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔う金鐘寺というお寺があり、それがやがて大和国国分寺、さらには東大寺へと発展したという。不空羂索観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会が行われたことから、後に法華堂と呼ばれるようになったという。堂内に入ると、内陣の中央に本尊の不空羂索観音が立ち、その廻りに合計十六の仏像が所狭しとばかりに立ち並んでいる。内十二体が国宝であり、四体が重文、天平時代の造立のもの十四体である。本尊の両脇に帝釈天、梵天が立ち、四隅に持国・増長・広目・多聞の四天王が置かれてあり、その他に地蔵菩薩、不動明王、吉祥天、弁財天、そうして前面中央には阿形と吽形の金剛力士が配されている。本尊の真後ろには執金剛神が厨子に納められている。有名な日光・月光菩薩は本尊のやや手前に並べられている。全体として仏の大きさに比して、お堂が小さい感じがあり、又本尊とその他の仏像との大きさがアンバランスな印象が強い。又あまりに多くの大きな仏像を、この小さな堂内に納め込みすぎているという感じも強い。従って、せっかくの国宝、重文の仏像が、この狭い堂内では十分に活かされていないと言う気がする。又日光・月光菩薩は他の仏像に比べると、この堂内では余りにも小さくて、その存在感が薄れてしまっているのも残念である。 法華堂と二月堂

二 月 堂

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  ( The Shuni-e Ceremony )  The Shuni-e Ceremony at the Nigatsu-do is best known by the name of Omizutori.Begun in 752 by Jitchu,the chief disciple of Roben who founded Todai-ji,the ceremony is formally a rite of repetenance to Eleven-headed Kannon in which penitence for one's misdeeds is sought in front of an image of Eleven-headed Kannon.Due to the Three Poisons--covetouness,anger and ignorance that are the true nature of humans--we commit myriad offenses which accumulate as contaminants of the spirit; as a result we become unable to see the truth and we also become ill. Through the ceremony one can repent one's misdeeds and attain a pure mind and body, do away with the misfortune and woes that are the retribution for one's evil deeds, and obtain well-being.However,although the Shuni-e is a rite of penetance it is important to remember that when it was begun it was a ritual performed on behalf of the state.Natural disasters, epidemics and rebellions were all seen as illne

二 月 堂

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  阿倍文殊院より桜井駅に出て、そこからJRに乗って奈良駅に出る。駅よりタクシーに乗って、東大寺の二月堂まで行く。車は東大寺の裏手を通って、大仏殿の東側にある二月堂への参道を登って行く。この辺りには車は乗り入れ禁止だと思っていたが、タクシーは大勢の観光客の中を登って行き、三月堂の前にある境内に着く。まず修二会(お水取り)で有名な二月堂に登る。このお堂は修二会が旧暦の二月に行われることから、二月堂と呼ばれており、江戸時代に再建された重文である。この修二会について、東大寺の観光者向けの本には次の通りの説明がある。 二月堂

聖 林 寺

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  難波より近鉄大阪線の特急に乗り、大和八木で乗り換えて櫻井の駅に着く。駅でタクシーを拾って聖林寺に向かう。聖林寺は、山の麓の少し小高いところにある。この辺りまで来る観光客は少ないようであるが、その日は修学旅行の高校生達のバスが、二台止まっていた。駐車場でタクシーを降りて、なだらかな坂道を登る。道からは石段で山門に上がる。聖林寺は藤原鎌足の長男定慧(じょうえ)が、父鎌足の菩提を弔うために、和銅五年(七一二年)に庵を結んだのが始まりと言われている。その後大神(おおみわ)神社の神宮寺である大御輪(おおみわ)寺の慶円上人が、鎌倉時代に阿弥陀三尊を祀って再興したという。本尊は丈六の子安延命地蔵尊で、僧文春が享保二〇年(一七三五)に本堂を新築して安置したもので、以来寺号を聖林寺とした。その本尊は、現在も安産祈願の信仰を集めている。 修学旅行生と一緒に、本堂で説明を聞き、今度も学生達と一緒に本堂左の階段を上って、コンクリート製の収蔵庫に入る。そこにはガラスで仕切られた向こうに、有名な十一面観音が安置されている。この十一面観音は、日本仏像彫刻の最高傑作の一つと言われ、天平時代の木心乾漆像である。住職と思われる方の説明では、「永遠の凝視」と言われる表情で、じっと静かな瞑想を続けられている。この観音様は、国宝の仏像百体の中で、第一次に選考された二十五体の中の一つであるとのことである。そうして蓮台の蓮弁が厳しく反り上がっているのが、特長であるとのことだ。この観音様は何度か写真で見たことがあるが、今日始めてお堂の外側から拝観したときに、先ずその均整の取れたお姿に見とれた。中に入って、修学旅行生に混じって、住職の説明を聞きながら、お姿を鑑賞する。お顔は薄く目を開けており、為に「永遠の凝視」と呼ばれているのだろう。遥か遠くを見つめておられるようだ。眉毛は山なりとなっており、鼻筋は日本的であるが、口許はインド風にやや分厚い。下膨れのふっくらとした顔立ちで、乾漆の金箔に亀裂が入っているためか、少し泣き顔となっているように感じられる。耳朶は長く、下部には大きな穴が開いている。肩幅は広く、その肩には優婉な天衣が掛けられている。胸部は普賢寺の十一面観音より盛り上がっている感じで、やや斜め横から拝すると、女人の豊かな胸のようにも見える。胸よりすぐ下は、きゅっと腰にかけて引き締まっており、お腹はまたふっく

薬 師 寺

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志貴山から降りて、薬師寺に回る。この薬師寺は興福寺とともに法相宗の大本山である。法相宗は唯識法相の学を尊ぶ宗派で、その基本は「森羅万象すべては己の心より識る」というところにあるという。かの有名な玄奘三蔵法師もこの唯識の教学を求めて、印度へ求法の旅に出たという。 薬師寺に着いた頃には、やや小降りの雨になっていた。これまで当寺を訪れたときはいつも近鉄の駅から歩いて北側から入山していたが、今回は南側の大きな駐車場より入山する。参道などよく整備されており、駐車場の傍らには料亭もある。その庭先には様々な種類の灯籠が、並べられていた。八幡神社とお稲荷さんも境内にあり、その横を通って中門に出る。中門は前回西塔復興後の昭和五十六年秋に、本店営業部の仲間と社内旅行で訪れたときには、まだ出来上がっていなかった。中門を潜って入る。 薬師寺は天武天皇により六八〇年に発願され、六九七年持統天皇の御代に本尊開眼をみている。ついで文武天皇の御代に、堂宇の完成をみた。しかし当時はまだ藤原京の地にあり、その後平城京への遷都に伴って現在地に移されたという。その当時は南都七大寺のひとつとして、その大伽藍は壮麗華美を誇ったとされている。華麗な堂塔は龍宮造りと呼ばれて、有縁の衆の眼を奪ったという。その後室町時代の一五二八年に、兵火に罹って東塔を除く悉くが灰燼に帰してしまった。 伽藍の復興は当寺の中興の祖とも言える高田光胤師の尽力によるところが大きい。昭和四十三年の般若心経百万巻写経開始により、昭和五十一年に金堂復興。写経二百万巻達成の昭和五十六年四月に、西塔が復興されている。昭和五十九年十月には写経も三百万巻になり、中門が復興されたという。写経運動の理想は「発菩提心、荘厳国土」にあると書かれている。すなわち清らかな心を持って、美しい世界を作り成すことであるという。中門の後には、玄奘三蔵院と回廊の再興が計画されている。 東塔と西塔とを見比べる。新しい西塔の方が、屋根の傾斜が反って見えるように思われる。二十年以上前に訪れたときには、西塔跡にその礎石のみが置かれてあったのを思い出す。再度東塔をみる。三重塔に裳階(もこし)をつけたこの塔は、「凍れる音楽」という名で呼ばれている。頂上の相輪に付けられた水煙は四方四枚からなり、そこには三十四体の飛天が透かし彫りとなっている。 金堂に入って、薬師三尊像

志貴山朝護孫子寺

  義弟の車で、志貴山へと登る。志貴山は敏達天皇の時代(五八二年)に、聖徳太子がここで毘沙門天を感得されたとして有名である。聖徳太子はこの山で物部守屋を討伐すべく、戦勝祈願をされた。そして寅の年、寅の日、寅の刻に、初めて毘沙門天を感得されたと言う。聖徳太子はその後用明天皇五八七年に毘沙門天の御加護で物部守屋を滅亡させ、自ら毘沙門天を刻んで当山の本尊として祀られた。そのために当山は信ずべき、貴ぶべき山として、信貴山と名付けられ、爾来毘沙門天王の総本山となっている。醍醐天皇の時代(九一〇年)に、当山は中興開山の命運上人が堂塔を建立、天皇重病の折りに毘沙門天の御加護で全快されたため、朝護孫子寺の勅号を賜ったと言う。 入門して坂道を登り、玉蔵院・浴油堂を経て日本一大地蔵尊・阿シュク如来・縁結び観音を拝する。石燈篭のある参道を歩いて行くと、宝物庫がある。中には信貴山縁起絵巻のコピーが展示されている。本絵巻は中興・命運上人に関する物語を鳥羽僧正が描いたもので、日本四大絵巻きの一つと言われる。楠木正成・筒井順昭・武田信玄などが、当山に信仰篤かったと言われる。また松永久秀が城を築く。織田信長の攻略に遭い一山堂塔すべて灰燼に帰したが、豊臣秀頼が再建したと言われる。 本堂に登る。この建物も長谷寺や清水寺と同じく、舞台造りである。本堂下の、戒壇巡りをする。暗黒の世界を手探りで進むと、途中に守り本尊を拝むことが出来るように小さな明かりが一個所のみ点いていた。ゆっくりとお参りすれば半日はかかるほど、様々な堂塔に満ち満ちた志貴山であった。