薬 師 寺

志貴山から降りて、薬師寺に回る。この薬師寺は興福寺とともに法相宗の大本山である。法相宗は唯識法相の学を尊ぶ宗派で、その基本は「森羅万象すべては己の心より識る」というところにあるという。かの有名な玄奘三蔵法師もこの唯識の教学を求めて、印度へ求法の旅に出たという。

薬師寺に着いた頃には、やや小降りの雨になっていた。これまで当寺を訪れたときはいつも近鉄の駅から歩いて北側から入山していたが、今回は南側の大きな駐車場より入山する。参道などよく整備されており、駐車場の傍らには料亭もある。その庭先には様々な種類の灯籠が、並べられていた。八幡神社とお稲荷さんも境内にあり、その横を通って中門に出る。中門は前回西塔復興後の昭和五十六年秋に、本店営業部の仲間と社内旅行で訪れたときには、まだ出来上がっていなかった。中門を潜って入る。

薬師寺は天武天皇により六八〇年に発願され、六九七年持統天皇の御代に本尊開眼をみている。ついで文武天皇の御代に、堂宇の完成をみた。しかし当時はまだ藤原京の地にあり、その後平城京への遷都に伴って現在地に移されたという。その当時は南都七大寺のひとつとして、その大伽藍は壮麗華美を誇ったとされている。華麗な堂塔は龍宮造りと呼ばれて、有縁の衆の眼を奪ったという。その後室町時代の一五二八年に、兵火に罹って東塔を除く悉くが灰燼に帰してしまった。

伽藍の復興は当寺の中興の祖とも言える高田光胤師の尽力によるところが大きい。昭和四十三年の般若心経百万巻写経開始により、昭和五十一年に金堂復興。写経二百万巻達成の昭和五十六年四月に、西塔が復興されている。昭和五十九年十月には写経も三百万巻になり、中門が復興されたという。写経運動の理想は「発菩提心、荘厳国土」にあると書かれている。すなわち清らかな心を持って、美しい世界を作り成すことであるという。中門の後には、玄奘三蔵院と回廊の再興が計画されている。

東塔と西塔とを見比べる。新しい西塔の方が、屋根の傾斜が反って見えるように思われる。二十年以上前に訪れたときには、西塔跡にその礎石のみが置かれてあったのを思い出す。再度東塔をみる。三重塔に裳階(もこし)をつけたこの塔は、「凍れる音楽」という名で呼ばれている。頂上の相輪に付けられた水煙は四方四枚からなり、そこには三十四体の飛天が透かし彫りとなっている。

金堂に入って、薬師三尊像を拝観する。薬師如来を中心に右が日光菩薩、左が月光(がっこう)菩薩である。薬師如来は東方浄瑠璃浄土の教主で医王如来とも呼ばれ、私たちの心身の病を救ってくれる医薬兼備の仏である。脇士の日光・月光菩薩が、各々その腰を中央に向けてくねらせているお姿も極めて美しい。白鳳文化の美の粋を、目の当たりに確認できるのが、この薬師三尊像とも言えるのであろう。

ついで東院堂で、聖観音菩薩立像(国宝・白鳳時代)を拝観する。像高は一米八十九糎あり、この御仏は記憶にあるものよりは大きいと感じた。全体から受ける御仏の印象は、日光・月光菩薩と比較すると、清々しくすっきりとした立ち姿で、和やかさと清麗さとを兼ね備えた、全く申し分のない仏様のお姿である。初唐時代の印度のグプタ王朝の影響を受けた様式が、日本に伝わりこの聖観音菩薩として花開いたと言われる。この聖観音菩薩を拝することのみで、何かしら自分の心に清々しさが流れ込んでくるように思われる。御仏の持つ清らかな祈りが、それを拝する我々人間存在に注ぎ込まれ、我々の心を昇華させてくれるのであろうかと感じた。

小雨の降り始めた薬師寺を辞する。

薬師寺 東塔

 

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