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秋 篠 寺

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「ある時天上では、大自在天王(シバ神)が大勢の天女達に囲まれて、天界の音楽や踊りを楽しんでいた。すると忽然として、大自在天王の髪の生え際から一天女が生まれ出た。その容姿の端麗なことはもとより、技芸に秀でていることは、並み居る天女達の遠く及ぶところではなかった。居合わせた天女天人達は一斉にその優れた才能を称えて、かの天女を伎芸天と呼んだ。伎芸天は、多く集まった天女天人達の中に立って、(もし、世に祈りをこめて田畑の豊作や、人生の幸せや、家庭の裕福などを願うものがあれば、私がその願いを悉く満足させよう。又学問や芸術に関する願いを寄せるものには、その祈願を速やかに成就させよう)と語った」                                    漢訳密教経典「伎芸天念誦法」より       秋篠や 外山の里は きりたちて           稲葉のすえを  わたるかりがね        西 行       秋篠の み寺をいでて かへりみる           生駒がたけに 日はおちむとす    会津 八一             諸々の み佛の中の 伎芸天           何のえにしぞ われを見たまふ    川田 順       秋篠の 伎芸天女の 印むすぶ           ゆび細々と 空に定まる       鈴木 光子       伎芸天女 寒きしじまの 夕にすら           匂ひこぼれて 立たせ給へり     松山 ちよ            秋篠は げんげの畦の 仏かな          虚 子             一燭に 春寧(やす)からむ 伎芸天       青 畝 秋篠寺 金堂跡  

秋 篠 寺

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本堂は二十数年前に来たときと同じで、本堂内に入ると、一番左手に伎芸天が祀られている。堂内は大勢の参拝客でいっぱいであり、最初は説明を聞くのみとなる。説明が終わり、一団体が去った後で、ゆっくりと伎芸天を鑑賞する。昔と比べると堂内の照明が一段と良くなっており、伎芸天がその照明の中に浮かんで見える。記憶の中にある伎芸天より、はるかに見ごたえがある。説明ではこの御仏の頭部(乾漆造)は千二百年前に造られたものであるが、肢体の部分(寄木造)は鎌倉時代に作成し仏頭と合成したとのことである。しかし両者は見事に調和しており、全く違和感がないのはそれだけ鎌倉時代の肢体の方の作者が、この伎芸天に魅せられていたためかもしれないと感ずる。伎芸天のかんばせを見上げる。お顔の表情は、夢見心地で法悦の境地を彷徨っているかのようである。浄化された悦楽の音楽を、伎芸天はその薄く開けた唇から、静かに薄暗いこの堂内の空間に漂わせているかと見える。束髪はやや薄い朱色がかかっていて、火災に遭われたせいかお顔が肢体の中で一番黒くなっているのも印象的である。右肩、右腰をやや後ろに引いて、左足の膝をやや前に出している。そしてお顔もやや左前方に傾けており、その姿勢がこの御仏に動きを与えていると思える。左手は掌をこちらに向けて少し前に出しながら伸ばしており、親指と中指、薬指で印を結んでいる。右手は肘を曲げて掌を見せながら前に掲げ、左手と同様な印を結んでいる。納衣は左腕は上膊部の半ばまで掛かり、右腕は肘の先まで納衣に被われている。肢体は鎌倉時代の作と言われるが、これもまた剥落しており、腰から上はやや白っぽく、腰より下は茶色のまだらとなっている。そのお顔と肢体のバランスが絶妙であり、鎌倉時代の作者はもしかすると火災に遭う前の御仏の体躯を、以前よりよく観察していたのかもしれないと思えるほどだ。横に廻って、御仏の背後を見ると、そこも又極めて肉付きよく豊満な肢体であることがよく判る。 肩から胸の上部にかけては、聖林寺の十一面観音と同じく巾広で豊満であるが、それが脇腹にかけて鋭角的に引き締まっており、その下のお腹はふっくらとしていてやや前に突き出されている。お顔の横の耳は、異様に大きく長く分厚いが、しかしお顔全体としてみると極めて自然な感じである。又束髪の頭の部分と、お顔の部分のバランスが、きちんととれていると思える。伎芸天はいわ

秋 篠 寺

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  戒壇院を出て、道を下って行くと、そこは依水園の正面である。そこから近鉄奈良駅に出て、近鉄で西大寺駅に着く。駅前より秋篠寺行きのバスに乗る。東門より入り、金堂跡の前を通る。そこには見事な苔が生えている。本堂境内に出ると、左手にある大元堂の前に木蓮が見事に咲いている。何人かの写真同好家が、三脚を建てて木蓮を撮している。木蓮を入れて、本堂を撮る。秋篠寺の沿革は、お寺のパンフレットによれば次の通りである。当寺の造営は奈良時代末期に始められたが、完成は桓武天皇の時代で、平安遷都とほぼ時を同じくしている。当地は又秋篠氏の所領であったことから、当時の草創は秋篠氏の氏寺であったという説もある。宗派は当初は法相宗であったが、平安時代以降真言宗に転じ、明治には浄土宗に属したが、今は単独の宗派をなしている。 秋篠寺 入口

戒 壇 院

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  三月堂を出て、なだらかな坂道を下り、大仏殿の前を通って戒壇院へと向かう。東大寺には昔何度か来たことがあるが、この戒壇院を訪れるのは始めてである。この院は戒律の第一人者であった唐僧鑑真が、勝宝六年に大仏殿の前に戒壇を設けて、聖武天皇以下百官公家四百人に戒を授け、同年に孝謙天皇の宣旨により造営されたものである。戒壇院はその後火災により何度か再建され、現在のものは享保時代(一七三二年)に再建されたものである。 院内に入ると、壇の中央に多宝塔が安置され、四隅に四天王が配されている。当院の四天王はもともと銅製のものであったがそれが失われたため、現在は東大寺の中門堂から移された四天王が置かれている。四天王は仏法の守護神として我が国においては飛鳥時代から信仰があり、天平時代に最高潮に達した。四天王が身に纏う甲冑は遠く中央アジアの様式である。静にして動、動にして静のこの四天王は、彫刻に於ける理想を実現し得たものとして、世界最高レベルを行くものと評価されている。これらの四天王の中では、一番動きの少ない広目天に心惹かれた。他の三天部には、その甲冑の下の筋肉にまで力が漲っていると感ずるが、この広目天については左手に書巻を持ち、右手に筆を持った自然な肢体をしており、筋肉もどちらかと言えば柔らかさを保っているように思える。しかしその額を寄せ目を狭めて、遠くを見据えるかの如き顔の表情からは、仏法を守らんとする強靱な意志が感じられ、それが我々を感動させるのではないかと思った。先の法華堂と比すると、こちらの方がより濃密で静謐感のある仏法の空間であるという思いが強い。 東大寺 戒壇院

法 華 堂(三月堂)

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  ついで三月堂に入る。この建物は天平一二年(七四〇年)の頃の創建と考えられており、東大寺最古の建物である。この辺り一帯に聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔う金鐘寺というお寺があり、それがやがて大和国国分寺、さらには東大寺へと発展したという。不空羂索観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会が行われたことから、後に法華堂と呼ばれるようになったという。堂内に入ると、内陣の中央に本尊の不空羂索観音が立ち、その廻りに合計十六の仏像が所狭しとばかりに立ち並んでいる。内十二体が国宝であり、四体が重文、天平時代の造立のもの十四体である。本尊の両脇に帝釈天、梵天が立ち、四隅に持国・増長・広目・多聞の四天王が置かれてあり、その他に地蔵菩薩、不動明王、吉祥天、弁財天、そうして前面中央には阿形と吽形の金剛力士が配されている。本尊の真後ろには執金剛神が厨子に納められている。有名な日光・月光菩薩は本尊のやや手前に並べられている。全体として仏の大きさに比して、お堂が小さい感じがあり、又本尊とその他の仏像との大きさがアンバランスな印象が強い。又あまりに多くの大きな仏像を、この小さな堂内に納め込みすぎているという感じも強い。従って、せっかくの国宝、重文の仏像が、この狭い堂内では十分に活かされていないと言う気がする。又日光・月光菩薩は他の仏像に比べると、この堂内では余りにも小さくて、その存在感が薄れてしまっているのも残念である。 法華堂と二月堂

二 月 堂

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  ( The Shuni-e Ceremony )  The Shuni-e Ceremony at the Nigatsu-do is best known by the name of Omizutori.Begun in 752 by Jitchu,the chief disciple of Roben who founded Todai-ji,the ceremony is formally a rite of repetenance to Eleven-headed Kannon in which penitence for one's misdeeds is sought in front of an image of Eleven-headed Kannon.Due to the Three Poisons--covetouness,anger and ignorance that are the true nature of humans--we commit myriad offenses which accumulate as contaminants of the spirit; as a result we become unable to see the truth and we also become ill. Through the ceremony one can repent one's misdeeds and attain a pure mind and body, do away with the misfortune and woes that are the retribution for one's evil deeds, and obtain well-being.However,although the Shuni-e is a rite of penetance it is important to remember that when it was begun it was a ritual performed on behalf of the state.Natural disasters, epidemics and rebellions were all seen as illne

二 月 堂

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  阿倍文殊院より桜井駅に出て、そこからJRに乗って奈良駅に出る。駅よりタクシーに乗って、東大寺の二月堂まで行く。車は東大寺の裏手を通って、大仏殿の東側にある二月堂への参道を登って行く。この辺りには車は乗り入れ禁止だと思っていたが、タクシーは大勢の観光客の中を登って行き、三月堂の前にある境内に着く。まず修二会(お水取り)で有名な二月堂に登る。このお堂は修二会が旧暦の二月に行われることから、二月堂と呼ばれており、江戸時代に再建された重文である。この修二会について、東大寺の観光者向けの本には次の通りの説明がある。 二月堂