投稿

粉 河 寺

イメージ
  そこより紀ノ川沿いに遡って粉河寺に向かう。田園風景の中を、上下に緩やかに畝っている道を車で走る。粉河は思ったより大きな町である。粉河寺に着く。さすが西国第三番らしく、参道も立派である。茶店で麺類を注文しお昼を摂る。当山は七七〇年に大伴孔子古(くじこ)によって開基され、風猛山粉河寺と称せられている。当山もまた秀吉の兵乱に遭い、焼失したが、その後紀州徳川家の寄進によって現在の諸堂が完成された。ご本尊は千手観音であり、厄除け開運の御利益があるとのことである。       ちちははの 恵みも深き 粉河寺 仏のちかい たのもしの身や 本堂の前には、国指定の名勝庭園があり、桃山時代の作と言われる。本堂前庭とその下の広場の段差を利用した珍しい作庭であり、石組みを土留めとしその上に樹木を配置した豪快な造りである。左手に小川を見ながら参道を茶店のほうへと戻る。茶店で借りた傘を返して粉河寺を後にする。 今日は朝一番は大変な大雨であり、お寺巡りにはどうかと思ったが、うまい具合に参拝中はあまり雨に降られなかったのは幸いであった。帰りも泉佐野まで送って貰う。 粉河寺

根 来 寺

イメージ
  その言葉に従って植物公園緑化センターに行く。こちらの受付で聞くと、今年は蓮の花の咲き具合が良くないとのことである。花壇の下方にある大きな蓮の池に降りていく。蓮の葉は高く伸びて、池全面を覆い尽くしているが、花は殆ど咲いておらず、もう咲き終わって実となっているか、もしくは未だ蕾のままである。残念と思いながらそれでもなお池の回りを巡ってみる。すると一輪見事に咲き誇っている花を見つけた。それを何枚かのフィルムに納める。 蓮の花

根 来 寺

イメージ
  次に根来寺に行く。和歌山市を経由して、紀ノ川を渡り根来寺に着く。まず根来一山の総門である大門を見る。左右に仁王を持つ十七米弱の立派な山門である。そこより車で随分と走って駐車場に着く。  根来寺は興教大師が一一四〇年に高野山よりこの地に移り開かれたお寺で、真言教学の殿堂を造るという遠大な理想のもと造営された寺である。根来寺と呼ばれるようになったのは一二八八年に頼愉僧正が新義教学の根本道場としてからである。堂塔二千七百、寺領七二万石の真言宗三大学山の一つとして栄えたと言われる。しかしその勢力を恐れた秀吉が一五八五年に根来攻めを行い、その結果大伝法院と二三の寺院を残すのみで、他はすべて焼失してしまった。その後徳川氏の外護を受けて復興が行われたという。最初に国宝大塔を見る。この塔は一四九六年に建立された我が国最大の木造多宝塔で、内陣は円形となっており、なかなか立派な建造物である。ついで本坊を訪れる。本坊庭園は中庭には蘇鉄の木も植えられており、その向こうは白砂の敷かれた山畔池泉鑑賞式庭園である。石橋が中之島に懸かり、山畔には刈り込みが植えられている。落ち着いた優しい感じの庭である。光明真言殿、行者堂、聖天堂も見る。聖天堂は浄土池に浮かぶ御堂でなかなかの風情である。本坊より出たところにもう一つの池があり、そこには蓮の花が咲いていた。昼近くなので花びらは大きく開いており、カメラに撮るもやや美しさに欠ける。近くで掃除中のおばさんによれば、植物公園にはもっとたくさん咲いているかもしれないとのことである。 根来寺 庭園

紀 三 井 寺

イメージ
  和歌山の市内に入りお城の側を通って紀三井寺に着く。当寺は名草山の中腹に造られた山寺であり、国宝の山門より二三一段の急な石段が続いている。途中で休み休み上まで登る。 当寺は奈良時代に(七七〇年)唐僧為光上人により開基された霊刹であり、十一面観世音菩薩を本尊とする救世観音宗の総本山であり、紀三井山護国院とも言う。西国第二番札所でもある。紀三井寺の名前の由緒は、紀州にある三つの井戸のある寺から来ているという。本堂にお参りし、それから宝物殿を見る。そこには西国三十三ヶ所の御影のミニチュア版があった。それ以外の物はあまり興味を引く物はなかった。 境内の見晴らしの良いところから、和歌の浦を眺める。なかなかの景観である。春は早咲きの桜の名所であるそうだが、その折はさぞかし美しい眺めとなろう。当寺の御詠歌は次の通りである。   ふるさとを はるばるここに きみいてら          はなのみやこも ちかくなるらむ   花山天皇  花山天皇は出家落飾されて上皇となられ、その昔徳道上人により開かれた西国三十三ヶ所の霊場を巡拝になり、一霊場一首の短歌を奉納になった。この御詠歌もその内の一つである。また当寺のエピソードとしては、紀ノ国屋文左衛門が母親を背負ってこの坂を登っていた折に、鼻緒が切れて困っていたところ、玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのが縁となり、二人は結ばれ、宮司の出資金で蜜柑船を出し大儲けをしたと言う言い伝えがあり、その為この坂は結縁坂と呼ばれている。 和歌の浦

淡 島 神 社(和歌山)

  関西国際空港出張所の面々と納涼会を開くべく、和歌山の大川港の大川茶屋に赴く。関空でエアロプラザを見学して、I所長の車で大川に着く。船宿である。風呂に入って宴会を始める。若手の連中と色々と話しかつ飲む。 翌朝Tさんの車でお寺回りに出発するが、大変な大雨である。まず加太にある淡島神社に行く。この神社は少彦名命(スクナヒコノミコト)、大巳貴命(オホナムジノミコト)、息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)の三柱を祀っている。最初の二神は国造り、農事、温泉、醸造、裁縫、治病の神である。姫命は応神天皇を安産されたことから、安産と子授けの神とされている。境内に入ると、人形や置物等が社の軒下などに所狭しとばかりに置いてある。左手の小さな社には、石で作られた男女のホトが祀られている。

縮 景 園(広 島)

イメージ
  有年場の上の展望の良い見晴らし台にある亭を通って、薬草園へ行く。そこから今度は香菜園へ廻る。そこは茶畑の上に満開の桜と桃が咲き誇っている。京橋川沿いに山道を巡って、悠々亭に至る。ここからの跨虹橋の眺めが見事である。濯纓池(たくえいち)には大小十幾つかの島があるが、この悠々亭からは手前に亀の形をした島が据えられており、遠景の跨虹橋とその手前の島、その向こうには数寄屋造りの清風館が望め、園内で最も眺めの良い場所であると思われる。縮景園の地割りは、実際の面積を何倍にも大きく見せるために各部は極めて変化に富んでいて、深山幽谷、広がりのある池の展望、あるいは海浜の景というように、四季の風情と共に変化と統一のある景観を備えている。池の中央に架けられた跨虹橋は七代重晟が橋の名工に二度も築き直させたものであり、小石川後楽園の円月橋、修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な造りとなっている。悠々亭より池畔を歩く。左奥を見ると、三つの土橋が三美人の微笑した唇のごとしと表現されているとおりに、優婉に見える。跨虹橋の廻りを一回りして、それから白龍泉を通り、明月亭の茶室に廻る。そこから古松渓を越えて、夕照庵前の州浜を見る。梅林のそばの調馬場より、桜の馬場へ行きそこから超然居へ至る。ここから見る池泉庭園の眺めもまた見事である。当園は小石川後楽園や岡山後楽園、六義園と比すると、規模は小さく彦根の玄宮園と同じくらいの大きさであるが、様々な変化に富んだ趣向を凝らしており、極めて完成度の高い大名庭園である。 跨虹橋の眺め

縮 景 園(広 島)

イメージ
ほぼ十年ぶりくらいに、この泉庭・縮景園を訪れる。小学校の時の遠足、中学一年生の時の小学校のS先生をかこむ会。それから高校三年生の時の卒業アルバムの記念撮影。そして約十年前の梅の咲いている頃の来園。関西に置いて庭巡りを始めていなかったら、今回もこうしてこの縮景園を訪れることもなかったであろう。 天気は快晴である。 縮景園は広島藩主浅野長晟が、入国の翌年元和六年(一六二〇年)から別邸の庭として築成したものである。作庭者は家老であり、茶人として知られる上田宗箇である。当園の名称は幾多の勝景を聚め縮めたところから名付けられたとも、また中国杭州の西湖を模して縮景したものとも言われている。園内は綺麗に整備されており、天気がよいことから沢山の拝観者が訪れている。入園して右手の桜の咲いている広場の芝生には、お花見弁当を広げている人々もいる。入口の正面に清風館があり、そこに植えられている桃が満開であった。右手に廻って土橋が三つ架かっているところを通って、銀河渓を見る。その上の有年場は、今でも毎年稲を植えているところである。 縮景園