建 仁 寺 開 山 堂 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 11月 09, 2020 次ぎは、開山堂を拝観する。興禅護国院と称し、栄西禅師の廟所である。堂内は瓦敷であり、内陣の中央の方形石垣の中に栄西禅師の坐棺が埋葬されていると言う。庭は山門より開山堂への石畳が、菱形に並べてあるのが印象的であった。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント 一禅大師2023年11月7日 0:43こちらでは、法要の後の会食は「精進あげ」(精進落とし)といい、「直会(なおらい)」は神社祭礼の終了・打ち上げの会食を言いますが、そちらでは直会で統一しているのでしょうか?。おみくじ https://www.ichizenn.com/omikuji/index.html日本観光サイト-お寺院_神社 https://www.kandou10.jp返信削除返信返信コメントを追加もっと読み込む... コメントを投稿
高 台 寺 11月 10, 2020 銀閣を出て次の目的地である清水寺に向かおうと思ったが、タクシーの運転手さんに高台寺行きを勧められる。今回の夜間拝観は、銀閣寺・高台寺・清水寺の他に、圓光寺もライトアップをやっているそうである。 高台寺の参道を登って、庫裡の左手より入山する。この寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあり、正しくは鷲峰山(じゅぶざん)高台聖寿禅寺という。この寺は秀吉の菩提を弔うために、北政所(禰々)が慶長十年(一六〇五年)に建仁寺の三江和尚を開山として開創したお寺である。徳川家康は淀君、秀頼と対抗する北政所を政治的配慮より支援し、この高台寺の造営に多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗を極めたという。一六〇〇年の関ヶ原の戦いの後、一六〇三年には家康は江戸幕府を開いており、一六〇五年に高台寺が完成、それから一六一四年が大阪冬の陣、そして一六一五年の大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡している。しかし一方禰々は出家して後陽成天皇より高台院の号を賜って、このお寺にて七十六歳の生涯を終えている。 裏手から廻って山内に入ると、そこに開山堂が見える。ライトアップされている開山堂の前は池となっており、東が臥龍池、西が偃月池と言う。偃月池の真ん中に、方丈と開山堂を結ぶ渡廊、楼船廊が架けられてあり、その中ほどに観月台がある。この観月台は柿葺きであり、秀吉遺愛のものという。偃月池には、北に亀島、南の岬に鶴島を造っており、桃山時代を代表する庭園と言われている。作庭はかの小堀遠州である。開山堂より、方丈庭園へ廻る。こちらも唐門を真ん中に据えた枯山水庭園であり、白沙の部分が極めて広い。壁に沿って左右に楓樹、枝垂れ桜などの樹木を植えている。中央手前には三角錐の砂盛りが二つある。ライトアップは、唐門にまず照明が当てられ、そしてその左右が照らされ、それから白沙の中央に置かれた二つのライトが唐門を中心にして照らし出し、そのあと白沙と苔の陸地に沿って置かれたイルミネーションの小さな光が転じ、それから庭の手前に設置されたライトより、三本のレーザー光線が右手と左手に各々放射される。庭を舞台とした光の芸術とも言えるこのライトアップが、時間の経過と共に一つずつ点滅してゆく様をしばらく眺め入る。 高台寺 ライトアップ 続きを読む
清 水 寺 成 就 院 11月 09, 2020 清水寺へ向かう。そして三時半過ぎに成就院へ入る。もとは赤松氏の邸宅趾であったという当院は、応仁の乱の後に清水寺を再興した願阿上人により創建されたお寺である。現在の建物は寛永九年(一六三九年)に、徳川家光により再建されている。 庭園の作者は相阿彌が原作者でその後小堀遠州が補修したという説と、松永提督が作者であるという説があるらしい。いずれにしても江戸初期の名庭の内の一つである。雪月花の庭の内の「月の成就院庭園」として有名で、その他にも「典雅温淳体の庭」などとも呼ばれている。そして当院には西郷隆盛と一緒に入水した、月照和尚もかつていたという。 庭は右の音羽山の山畔を用い、湯屋谷と向かいの高台寺山を上手く使った作庭となっている。右の山畔は円形と四角形・長方形の刈り込みを使って被っている。池の中には烏帽子岩と蜻蛉灯籠を配した中島、そしてその右手に籬(まがき)島がある。そして池のこちら側の手前には、瀬戸内海の大島産の自然石で造った・誰が袖形手水鉢がある。そして池の右手の方には、愛らしい形をした手鞠灯籠も置かれている。右手山畔は枯れ滝の石組みで、その手前の池には橋が架かつている。また高台寺山の方には、庭のほぼ真正面に灯籠を置くことで遠近感を出しているようである。高台寺山と音羽山の作る稜線が、実に見事である。背景も借景等も含めてすべてに趣あり。 訪問当日の観庭印象は次の通り。 「鶴島と亀島が、池の中央左右にあり。特に亀島の烏帽子岩と蜻蛉灯籠に焦点が行くようになっている。鶴島は板の橋で山畔式の築山に向かつて繋がっており、右側は右肩上がりの斜面となっている。その後ろにある樹木がやはり山の斜面に沿って右肩上がりに植えられている。そしてそのまた後ろの音羽山も右肩上がりの斜面をなしており、三重の右肩上がりの構図が出来上がっており、それがこの庭の一つのアクセントでもあり、魅力ともなっているように思われた。また蜻蛉灯籠の上の辺りが、稜線の作る逆三角形の頂点となっており、空が景観の上部に逆三角形で拡がって行く。この構図は正伝寺の庭も同様であり、庭の景観を額縁で切り取るとすると、これが安定感を与える構図になるのであろう。そしてこの構図はまた、景観の中央に鑑賞者の焦点を持ってこさせる効果があるのかもしれない。また庭の向こうの刈り込みの生け垣が、右側の右肩上がりの線に対し、横に... 続きを読む
大 徳 寺 本 坊 11月 18, 2020 再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅旨も得て、一三二六年に大徳寺創建となった。その後応仁の乱などで衰退したが、十五世紀後半に一休禅師が再興。桃山、江戸時代にかけて興隆し、現在の威容を為した寺である。一休禅師以降も以天、東渓、古岳、春屋、古渓、玉室、沢庵、江月等の名僧を輩出した。大徳寺本坊へは庫裏より入る。庫裏は大竈の炊き口が並ぶ、重要文化財である。それに続くのが食堂(じきどう)、長い食卓が頭上に並べて架けられている。そして方丈前の板の間には、洋風の机と椅子が置かれてあり、その右手には坪庭と井戸がある。方丈庭園は小堀遠州の作と伝えられているが、この庭園は一六三六年に京都の豪商後籐益勝が方丈を寄進した際に、共に作庭されたという。沢庵和尚が紫衣事件で流罪(一六二七年)となり、その波乱の治まった頃である。作庭の作者は天佑和尚であるという説もある。 南庭は長方形の平庭で、方丈の正面に唐門が設けられている。方丈の縁側を歩くとそこはうぐいす張りとなっており、歩を進める度にきゅっ、きゅっと軽快な音を発する。方丈の庭は正面に日光陽明門のモデルとなったひぐらし門の原型である、花鳥の透かし彫りのある唐門がある。これは元聚楽第の正門で桃山時代に建造されたものである。それを村上周防守が拝領し、大徳寺境内山門の西側にあったものを、明治初年に移築したものである。その前には明智光秀寄進の明智門があったが、これは明治初年に金地院に移建されている。庭の手前は瓦敷きの廊下となっており、右手には門主の入る通用門がある。白沙はまっすぐの縦の線と蛇行線が交互に引かれてあり、その文様が面白い。正面やや右に二つの砂盛があり、その右に石が二つある。右の石は高く白沙から出ているが、左の石は平面のみ白沙から出ている石組の島である。鶴島、亀島を表しているものか。唐門の左右の石組みと木の配置、また左手奥には蓬莱山と滝それに滝壺を表している石(平天石 --- 伏せ石)が白沙に埋め込まれており、興趣あり。またその右側の横に長い石二つも面白い。全体としてバランスが取れており、二つの... 続きを読む
こちらでは、法要の後の会食は「精進あげ」(精進落とし)といい、「直会(なおらい)」は神社祭礼の終了・打ち上げの会食を言いますが、そちらでは直会で統一しているのでしょうか?。おみくじ https://www.ichizenn.com/omikuji/index.html
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