智 積 院

妙法院を出て、その南にある智積院を訪れる。この寺を訪れるのも五年ぶりくらいである。当院は真言宗智山派の総本山である。真言宗は弘法大師により、平安初期に開創されたが、それより三百年後の平安末期に興教大師が出て高野山において真言教学を刷新・再興した。興教大師はその後根来山に移った。そして根来寺は戦国時代には最盛期を迎えたが、秀吉に刃向かい一山悉く焼き払われてしまった。

この根来山の塔頭の一つが智積院であり、根来山の塔頭寺院の学頭であった智積院の玄宥僧正は、難を高野山・京都へと避けて根来の再興を願っていた。降って徳川家の時代となって、家康は、秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を、元和元年(一六一五年)大阪城の落城後すぐに、日頃帰依していた智積院能化(のうけ)に寄進した。

能化はこれを五百仏頂山根来寺智積院と改名したのが、現在の智積院の始まりである。真言宗智山派は成田山新勝寺・川崎大師平間寺等の大本山、名古屋の大須観音宝生院などの別格本山をはじめとして、全国に三千余ヶ寺を擁し、三十万の信徒を持っている。

入口の参道脇には、白と紫の桔梗が植えられていた。最初に宝物館に入り、国宝の障壁画を見る。ここに展示されているのは、長谷川等伯一派の楓図・桜図・松に秋草図などである。等伯は石川・七尾の生まれで、上京して狩野派の門を叩いたが、作風があわずに一派と対立、千利休と知り合い大徳寺に出入りしているうちに、その所蔵の名画に接して独自の画風を確立した。ここに飾られているのは、秀吉の時代に祥雲禅寺の障壁画として描かれたものである。桜図は等伯の長子久蔵二十五歳の作である。二本の桜を中心に、空間には弾力のあるしなやかな枝、画面全体に胡粉で盛り上げた直径六センチもある八重の花を蒔き散らし、地面には野の草花を配している。そして立体感を作り出す金雲や群青の池を描いている。画面は大胆な構図のもと、金と白とを基調とし、春爛漫の桜の景色を描き出している。久蔵はしかし翌年他界し、人生の無常を感じた等伯が、自己の生命力を傾けて描いたのが楓図である。画面中央に描き出された幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的な表現、色彩の強烈なコントラストとその一方でパステルカラー調の配色、それら全てが和合して生き生きと明るくそして絢爛豪華に楓樹を描き出している。画壇の主流をなす狩野派が、威圧的表現、また装飾的な表現に走っていったのに対して、長谷川派は自らの理想とする画風を見事に打ち立てたとも言える。

智積院の金堂


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