豊 国 神 社

 京都駅から七条大橋を渡って、「わらじや」の前を通過して左折し、豊国神社に着く。豊国神社の前にある公園のそばに、耳塚がある。ここは秀吉の朝鮮出兵の折りに持ち帰った敵の武将の耳を、供養のために葬ったところである。豊国神社内に入る。この神社の由緒は、次の通りである。豊臣秀吉は慶長三年(一五九八年)に、京都伏見城で六十二年の生涯を終え、遺命により東山連峰の秀峰、阿弥陀が峯に埋葬された。現在の豊国廟である。秀吉は後陽成天皇より、豊国大明神の神号を与えられ、その山腹の太閤垣(たいら)に権現造りの壮麗な社殿が造営され、神として祀られたという。その豊国社(とよくにのやしろ)は境域三十万坪の広大な規模であったという。しかしその豊国社は徳川の手によって破壊され、跡形もなくなってしまっていた。明治に入り、明治天皇のご沙汰により豊国社は別格官幣社に指定され、旧方広寺の大仏殿跡地に復興されたのが、現在の豊国神社である。

境内正面に立派な唐門がある。この門は旧伏見城の遺構で、西本願寺・大徳寺の唐門とともに国宝三唐門と呼ばれているそうである。宝物館に入る。館内には、鐵灯籠「天下一」や伝豊公御所用の獏御枕などがあるが、宝物館と言うにはやや逸品が少ない。境内を出て方広寺に行くが、ここは鐘楼がひとつあるだけの侘びしい造りのお寺である。方広寺は秀吉の作った木造寄せ木造りの大仏で有名である。その大仏は奈良の大仏より、三メートルほど高かったそうであるが、慶長元年の大地震で崩壊してしまった。その後秀頼が再興した大仏も、再度の地震で崩壊し、それが鋳つぶされて寛永通宝となった話も有名である。しかし今は「国家安康」と彫ったがために、家康を分断しようとする企みとして糾弾される源院となったその鐘が、ただ残されているのみであった。

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