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大 洞 弁 財 天

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  彦根駅について、タクシーで龍潭寺にむかう。運転手さんの話ではその近くにある大洞弁財天も一見に値するとの由、龍潭寺前に着きまずその日本三大弁財天の一つであるという大洞弁財天への山道を登って行く。 当弁財天は、石田三成の佐和山城趾のある山の北端に位置している。院号は長寿院と言い、江戸幕府の日光普請奉行でもあった四代藩主井伊直興が創建したお寺である。日光の大工をたくさん連れてきて、日光の東照宮と同じく権現造りの豪華さを持つ建物として造り上げられたので、通称彦根日光とも呼ばれているそうだ。楼門の左右には日月の二神像を配し、彦根城の鬼門を厄払いすると共に、軍事的役割を持っていたとされる。竣工は一六九六年犬公方綱吉の元禄時代であり、閑谷学校の聖廟と同じ頃の建物である。同時代人としては、井原西鶴、松尾芭蕉、円空、楽一入、菱川師宣、徳川光圀、尾形光琳などがあげられる。当弁財天は近江七福神の一つでもあり、建立のときに西国・秩父・阪東の二百八十一カ所の砂をすべて集めて埋めてあるとのことである。従ってここを参拝するのみで上記三カ所の巡礼をしたことになるようであり、商売繁盛・学業成就の御利益があるそうである。 堂内の弁財天は左手に玉、右手に剣を持っており、風貌は家康公を模したような感じがあり、また左右には龍の脇士があるのも珍しい。欄間には権現造りの様々な彫刻があり、まさに小東照宮である。そもそも天部とは、仏教がそれ以前の既成宗教であるバラモン教などからそれらの神々を同化したものであり、明王とともに天部もそれらの民間信仰の神々を、仏法も守る善神として転化したものである。天部は梵天・帝釈天それから四天王(増長天・広目天・持国天・毘沙門天)のように邪気を踏みつけながら仏国土の四方を守護する怒りの男神ばかりでなく、豊かな肉体と美しい容姿を持つ女神もおり、それが弁財天と吉祥天である。吉祥天が福徳円満・五穀豊穣の神として信仰されたのに対し、弁財天は水の恵みの神として商売繁盛・学業成就の神として信仰されてきた。これ以外にも伎芸天という女神もいる。 大洞弁財天

安 土 城 趾

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  大阪駅より十時半の新快速米原行きに乗車、京都までは約三十分、それから四十七分の合計一時間十七分で彦根に到着の予定である。近江八幡の駅近くでは、関白豊臣秀次(秀吉の甥)により築城された八幡城の城山が見える。山の麓からはケーブルカーが登っている。近江八幡の街も秀次の十年後の自裁により取り残されたが、その中から逞しい近江商人が育ってきたのであろう。近江八幡の駅を出てやや進むと、前方に山の連なりが見えてくる。その左端の小高い山が安土山で、安土城趾となっている。なだらかな横長の山でここにかの信長が、「平安楽土」の文字の中より「平安」京に対抗するものとして「安」と「土」を取り出して命名した安土城を築き上げたのである。フロイスなどを始めとする宣教師たちが、京を経てこの安土城までやって来た時代もあったのである。電車は安土山の右の裾野を通過して行く。 安土城跡

永 平 寺

  朝十時の雷鳥で大坂を出発。福井へ二時間余りで到着。京福電鉄の福井駅で蕎麦を食べ、永平寺へ向かう。東古市でバスに乗り換える。約三十分で永平寺に到着する。門前の土産物商店街は賑やかである。お寺には通用門より入山する。左右は大きな杉木立の道で、自然の森閑さが伝わってくる。総受所に入ると、このお寺を訪れる人々の多いのに驚かされる。総受所のある吉祥閣は、宿泊所にもなっている。吉祥閣の日本間で、堂宇内はすべて左側通行である等の注意を受ける。 まず東司(便所)より堂宇に入る。東司と浴室は山門を中心に東西にある。山門より北へは中雀門、仏殿、一文字廊、法堂(はっとう)と並んでいる。東司の上には僧堂、その反対側は庫院(くいん)である。まず僧堂より見る。僧堂は座禅をし食事をしかつ眠るところであり、まさに修業道場である。次に中雀門を通って仏殿へ行く。ここは祈祷の場であり、本尊は現在仏の釈迦牟尼仏であり、左手に過去仏の阿弥陀仏、右手に未来仏の弥勒仏の三世如来を祀っている。一文字廊を通って承陽殿へ行く。ここは開山道元禅師の御真廟である。石段の上を履き物無しで歩いてお参りをする。仏僧は毎朝夕、ここにお参りをするそうである。次いで法堂に行く。ここは貫主説法の道場で、朝の勤行や各種法要儀式はここで執り行う。聖観音菩薩が奉祀されており、千名の衆僧を収容することが出来るほどの広さがある。そこより大庫院(台所)、浴室を経て山門へ。唐様総欅造りの重層楼門で、七四九年の改築で堂宇内最古のものという。廊下には合図のための分厚い板が掛けられてあり、毎日打っているためか、真ん中に大きな穴があいている。祠堂殿は先祖供養の御堂である。広島と福井の両亡父のために、瓦志納を行う。経本、念珠、月刊誌を頂く。 永平寺の由来は、次の通りである。京にあった道元は、自らが高名となるに従って、自分の名声が世俗のために使われることを嘆くようになっていたが、そこに鎌倉武士で大檀那の波田野義重公の勧めがあり、越前の国志比庄に移って一二四四年に開創した出家参禅の道場が始まりである。十万坪に境内に大小七十の伽藍が建ち並び、樹齢六八〇年の鬱蒼とした老杉に囲まれた佇まいは、古色蒼然とした霊域を創り上げている。 道元は一二〇〇年に京都に生まれ、八歳で母の他界に逢い、十三歳で比叡山横川に出家。二十四歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について

閑 谷 学 校

  焼き物の里を後にして、閑谷学校へ行く。創設者である藩主池田光政が、この地を選んだらしい。谷間の静寂な山の懐となっている場所で、確かに風趣に富む優しい感じの土地である。一六六八年に最初の手習い所を設け、その後重臣津田永忠らによって拡張された。学校へは所領も与えられ、光政がいかに庶民教育を大切にしたかが伺われる。学校は高さ一メートル半以上、幅も一メートル以上の石壁で囲まれている。門・講堂の屋根はすべて備前焼の瓦で敷かれており、受ける印象は中国宗風である。学校は全寄宿制であり、小学生くらいの子供も入寮させており、教育への情熱が偲ばれる。光政公は実に開明の名君であったのであろう。孔子廟もあり、山田方谷もここで傑出した人物を教えたようである。

伊  部

  藤原啓記念館より、伊部(いんべ)の街・備前焼の里に入る。金重利陶苑(号陶弘)に入って、釜を見せて貰う。登り釜、電気釜を見てそれから轆轤を回しているところも見せて貰う。電気釜はちょうど釜を開けたところであり、陶器がまだ藁灰の燃えかすの中に埋もれているところも見せて貰った。 備前焼の由来は須恵器より始まっており、釉薬を使わず素地のままで強い火で長い間焼きしめ、火加減により現れる窯変の絶趣洵に掬すべきものと書かれてある。桃山時代に茶道具として好まれ、その後江戸時代には藩主池田家の保護により、現在まで連綿と釜の火は続いている。自然の焼成による焼き肌との綜合的な美観が備前焼の持ち味で、焼色も主に次のようなものがある。胡麻焼、桟切(さんぎり)焼、緋襷(ひだすき)焼、青焼、また石はぜと呼ばれるものは、陶土の中に含まれた自然の石が焼成の際に土と石との収縮の差で器物の肌に弾けて、一見傷のようであるがそうではなく自然の柄となり、その美しさが珍重されている。 利陶苑で記念になるものを買おうとして最初は安価なものを見ていたが、やはりじっくりと見るとやはり高価なものの方が味がある。電気もしくはガスと炭との焼成の差もあるのであろう。結局徳利とお猪口を一つずつ買い求める。

牛  窓

  邑久より岡山ブルーラインに乗って、牛窓(うしまど、奈良時代にこの地区の港であり、文化の受け入れの窓であった)の北を通り、片上湾を橋で越えて日生(ひなせ)に着く。鹿久居荘という料理旅館で昼食。刺身弁当と蛸の踊りを食べる。 そこから片上湾に面した藤原啓記念館へ行く。明治三十二年生まれの藤原啓は、代用教員の職を擲って上京。作家を目指したが志ならず、郷里に戻ってきた。その後正宗白鳥の弟の勧めで四十歳にして備前焼を始める。金重陶陽の指導を受けて、土を愛し酒を愛する人生の友としての交友を結び後に共に人間国宝となっている。陶陽の作品が厳しく精悍なのに比して、啓の作品はおおらかで素朴であると言われている。記念館は一階と地下の造りとなっている。館内にはあまり訪れている人はいない。地下に降りると、貸し切りであった。

竹 久 夢 二 生 家

  橋を渡って邑久町に入り、竹久夢二の生家を訪れる。夢二の生家は造り酒屋であったが父親の時代に没落し、夢二は一時期九州の方へ移り住んでいたようである。十六歳まで福岡におり、八幡製鉄所で図面引きをしていたこともあったが、十七歳で上京、早稲田実業に入るがコマ絵が認められて中退、挿し絵画家としての人生を歩き始める。年上で出戻りの絵葉書屋の「たまき」と恋に落ち、二十四歳で結婚。このたまきをモデルに夢二式美人画が生まれる。夢二は明治画壇の重鎮藤島武二の門下の「三ジ」として、藤田嗣治、東郷精治と並び称せられる。夢二のたまきとの結婚は三人の子を成しながらも破局となり、夢二二十六歳で離婚。しかしその後もたまきとの愛欲関係は続いたという。三十三歳で女子画学生の笠井彦乃(愛称山路しの)と結ばれ京都二寧坂で同棲、しかしこの生活も彦乃が胸を病んで二十五歳で没することで終わりを告げた。彦乃の死後は藤島武二のモデルお葉と同棲したという。 夢二の絵は芸術としてみるよりも、そのほのぼのとした温もりと純粋な目で見て描かれた美を味わうべきであろう。夢二の美人画は初めて恋というものを知り、男との愛欲を知り染めた乙女が、まだその幼さと純情さとともに、初々しい色気を醸し出している風情を描いたものが多いように思われる。そうしてそう言った乙女から女へと変遷して行く、その危うい過渡期にある儚い美しさこそが、夢二にとって永遠の憧れの女性であったのであろう。そして実生活の中では、その憧れの女性とは「たまき」であり、「しの」であったのであろう。