竹 久 夢 二 生 家

 橋を渡って邑久町に入り、竹久夢二の生家を訪れる。夢二の生家は造り酒屋であったが父親の時代に没落し、夢二は一時期九州の方へ移り住んでいたようである。十六歳まで福岡におり、八幡製鉄所で図面引きをしていたこともあったが、十七歳で上京、早稲田実業に入るがコマ絵が認められて中退、挿し絵画家としての人生を歩き始める。年上で出戻りの絵葉書屋の「たまき」と恋に落ち、二十四歳で結婚。このたまきをモデルに夢二式美人画が生まれる。夢二は明治画壇の重鎮藤島武二の門下の「三ジ」として、藤田嗣治、東郷精治と並び称せられる。夢二のたまきとの結婚は三人の子を成しながらも破局となり、夢二二十六歳で離婚。しかしその後もたまきとの愛欲関係は続いたという。三十三歳で女子画学生の笠井彦乃(愛称山路しの)と結ばれ京都二寧坂で同棲、しかしこの生活も彦乃が胸を病んで二十五歳で没することで終わりを告げた。彦乃の死後は藤島武二のモデルお葉と同棲したという。

夢二の絵は芸術としてみるよりも、そのほのぼのとした温もりと純粋な目で見て描かれた美を味わうべきであろう。夢二の美人画は初めて恋というものを知り、男との愛欲を知り染めた乙女が、まだその幼さと純情さとともに、初々しい色気を醸し出している風情を描いたものが多いように思われる。そうしてそう言った乙女から女へと変遷して行く、その危うい過渡期にある儚い美しさこそが、夢二にとって永遠の憧れの女性であったのであろう。そして実生活の中では、その憧れの女性とは「たまき」であり、「しの」であったのであろう。

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