永 平 寺

 朝十時の雷鳥で大坂を出発。福井へ二時間余りで到着。京福電鉄の福井駅で蕎麦を食べ、永平寺へ向かう。東古市でバスに乗り換える。約三十分で永平寺に到着する。門前の土産物商店街は賑やかである。お寺には通用門より入山する。左右は大きな杉木立の道で、自然の森閑さが伝わってくる。総受所に入ると、このお寺を訪れる人々の多いのに驚かされる。総受所のある吉祥閣は、宿泊所にもなっている。吉祥閣の日本間で、堂宇内はすべて左側通行である等の注意を受ける。

まず東司(便所)より堂宇に入る。東司と浴室は山門を中心に東西にある。山門より北へは中雀門、仏殿、一文字廊、法堂(はっとう)と並んでいる。東司の上には僧堂、その反対側は庫院(くいん)である。まず僧堂より見る。僧堂は座禅をし食事をしかつ眠るところであり、まさに修業道場である。次に中雀門を通って仏殿へ行く。ここは祈祷の場であり、本尊は現在仏の釈迦牟尼仏であり、左手に過去仏の阿弥陀仏、右手に未来仏の弥勒仏の三世如来を祀っている。一文字廊を通って承陽殿へ行く。ここは開山道元禅師の御真廟である。石段の上を履き物無しで歩いてお参りをする。仏僧は毎朝夕、ここにお参りをするそうである。次いで法堂に行く。ここは貫主説法の道場で、朝の勤行や各種法要儀式はここで執り行う。聖観音菩薩が奉祀されており、千名の衆僧を収容することが出来るほどの広さがある。そこより大庫院(台所)、浴室を経て山門へ。唐様総欅造りの重層楼門で、七四九年の改築で堂宇内最古のものという。廊下には合図のための分厚い板が掛けられてあり、毎日打っているためか、真ん中に大きな穴があいている。祠堂殿は先祖供養の御堂である。広島と福井の両亡父のために、瓦志納を行う。経本、念珠、月刊誌を頂く。

永平寺の由来は、次の通りである。京にあった道元は、自らが高名となるに従って、自分の名声が世俗のために使われることを嘆くようになっていたが、そこに鎌倉武士で大檀那の波田野義重公の勧めがあり、越前の国志比庄に移って一二四四年に開創した出家参禅の道場が始まりである。十万坪に境内に大小七十の伽藍が建ち並び、樹齢六八〇年の鬱蒼とした老杉に囲まれた佇まいは、古色蒼然とした霊域を創り上げている。

道元は一二〇〇年に京都に生まれ、八歳で母の他界に逢い、十三歳で比叡山横川に出家。二十四歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について修業。釈迦牟尼仏より五十一代の法灯を嗣がれ二十八歳で帰朝。一時建仁寺に留まり、その後宇治で興聖寺を創建。その後四十四歳の折りに吉祥山永平寺を開いたのである。禅宗の始祖は達磨大師であり、インドから中国に渡って崇山で九年間壁に向かって修業、座禅し悟りを開いた。その後六代目慧能(えのう)が思想的基礎を固め、九代目の百丈懐海(えかい)により禅宗の規律が作られた。この宗派の特色は、仏典を与えられたものとして学ぶのでなく、それを説いた仏の心そのものに立ち返って、自分自身で直接体験しようとすることにある。作務(労働)を尊ぶ日々の実践的修業が、重んじられるのである。百丈の弟子に黄檗希運がおり、その門下の臨済義玄は希運との激しい問答の末に悟りを開き、「臨済録」を纏め上げた。この教えを天台宗の高僧であった栄西(一一四一―一二一五)が四十七歳のとき二度目の入宋をして、天台山万年寺で禅の修業を積んで、臨済宗黄龍派の印可を受けて帰国している。栄西は帰国後九州を中心に布教を行い、博多に日本最初の禅寺聖福寺を建てた。その後臨済の厳しい修業戒律が武士の生活規範に合うことから、鎌倉幕府の支援を得て京に建仁寺を創建。また栄西は東大寺の僧正になるなど、禅宗のみに留まらず天台宗の円、禅、戒、密を統合する仏教者として活躍した。

京都五山とは、南禅寺を別格として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺であり、漢詩文を中心とした五山文学も生み出した。臨済宗の基本は、釈迦の悟りへの道を追体験する座禅にある。仏壇の中心には釈迦如来、右に観音菩薩、左に達磨大師を祀るのが基本で、抹香は一回で頭におしいただかなくて良い。宗派は十五派あるが、そのうちの主流は山林派である。これは戦国時代に入り室町幕府の力が衰えてくると、政治と結びつかず修業一筋につとめる禅僧の一派が出来上がってきた。これを山林派と呼ぶのである。建長寺の大応国師、大徳寺の大燈国師、妙心寺の関山国師たちがこの一派で、これを「応、燈、関の一流」と呼ぶ。その後継者として江戸時代に出た白隠禅師(一六八六―一七六九)が公案を日本人にふさわしく再編し、宗派の基本を確立した。主な宗派宗祖は、建仁寺派栄西、円覚寺派祖元、南禅寺派普門、建長寺派道隆、仏通寺派周及、妙心寺派慧玄、相国寺派夢窓、大徳寺派大燈、東福寺派聖一などである。

次に曹洞宗について見てみる。そもそも中国の禅宗は唐末から五代にかけて、五派に分かれた。臨済宗、イギョウ(さんずい+為 仰)宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗である。これらの違いは教義上と言うよりも指導法の違いであり、臨済は公案を工夫する看話(かんな)禅であるのに対し、曹洞宗は黙々と座ることを重んじる黙照禅であった。曹洞の名は宗祖洞山良价(りょうかい)(八〇七―八六九)とその弟子の曹山本寂の頭文字から取ったものである。

道元の教えは、只管打坐(しかんだざ---ただひたすら祈ること)を唱えた点にある。つまり坐禅は何かの目的のために行うのではなく、悟りを開くための修業でさえもなく、むしろただ坐る姿が仏であると信じること「即身是仏」が大事だと教える。くわえて日常生活を仏子として厳しく保ち、世の中の苦悩を救うために人々に奉仕することをも求めている。しかし道元は自ら宗派を開く考えもなく、自らの立場を禅とも呼ばないでただ正伝の仏法と呼んでいた。この道元の教えは、弟子で二代目の懐奘禅師が書き記した「正法眼蔵」に表されている。そして四代目の瑩山紹瑾(えいざんじょうきん)がそれを受け継いで、宗派としての基礎を固めた。

日本の仏教の大きな流れを見ると、仏教の伝来は六世紀始めの聖徳太子(五七四―六二二年)の登場が仏教隆盛のスタートとなった。奈良時代の南都六宗を経て、平安初期の九世紀に、天台の最澄(七六七―八二二年)、真言の空海(七七四―八三五年)が出た。その後平安末期十二世紀半ばに法然(一一三九―一二一二年)が浄土宗をひろめ、弟子の親鸞(一一七三―一二六二年)が浄土真宗を説いた。一方末法思想による浄土信仰が高まる中で、これに反発する宗派として臨済の栄西(一一四一―一二一五年)とその門下の曹洞の道元(一二〇〇―一二五三年)が出たのである。栄西は平安末期、道元は鎌倉初期に各々布教を行った。年代的には道元と親鸞はまさに同時期に生きて、それぞれの教えを説いていたのである。そのすぐ後に日蓮(一二二二―一二八二年)が浄土宗に対抗して法華経を唱え、またそれに次いで一遍(一二三九―一二八九)が浄土教の一派として時宗を唱えたのである。

道元は五十四歳で没しているが、道元の同時代の人物としては後鳥羽上皇、藤原俊成、法然、栄西、源実朝、運慶、北条政子、藤原定家、親鸞などがあげられる。

木々の鬱蒼とした山裾に建てられたお寺を辞す。

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