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円 山 公 園

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  三門から出て南門を潜ると、もうそこは円山公園である。この公園は明治十九年に開かれた京都最古の公園であり、その後二度の拡張で現在の広さとなり(明治四十年)、大正二年に植治(小川治兵衛)が現在の庭を造った。疎水からの水を滝として取り込み、曲水として流し池に導入している、池泉回遊式庭園である。 円山公園の桜はもともと宝寿院というお寺の庭にあった桜であり、明治時代には祇園の夜桜として有名になっていた。植治は一番有名な枝垂れ桜を主役とすべく、そのすぐ上に瓢箪池を造り、その石橋を枝垂れ桜が最も美しく見える位置に据えたという。  まず石橋を渡って、流れに沿って遡る。桜はまだ二分咲き程度であるが、滝の近くにある枝垂れ桜は三分程度咲いている。 そこには坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像もある。また庭の中心にある枝垂れ桜の所に戻る。これもまだ三分咲き程度である。この桜は二代目で、初代は昭和二十三年に枯れたため翌年仔桜を植えたのが、今の枝垂れ桜とのことである。 円山公園の枝垂れ桜

知 恩 院

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  青蓮院の門前で、ぜんざいを食べる。そこより南下すると、知恩院の黒門に着く。黒門坂はまるで城郭の一部のようである。これまで知恩院というと三門の前を通るのみで、知恩院そのものには全く訪れたことがなかった。今回が初めての拝観である。知恩院は浄土宗総本山であり、青蓮院の一部を慈圓より譲られて、一一七五年に法然上人が念仏の根拠地としたと言われる。法然はその流罪後、今の勢至堂の辺りに住んだが、一二一二年に当地で没した。法然入寂後二十三回忌の年に、門弟源智上人が知恩院を創建、のち織田信長、豊臣秀吉さらには徳川幕府の庇護のもと栄えた。法然上人は一一三三年に美作国(岡山県)で里の領主漆間(うるまの)時国の一人子として誕生。幼時は勢至丸と呼ばれた。九歳の時に父親が夜襲で亡くなり、その遺言(恨みを晴らすに恨みを持ってすれば、人の世には恨みは無くならない。汝は出家して万民の救われる道を求めよ)に従って比叡山に入山し、その後青龍寺で修業と勉学に励んだ。そして一一七五年に南無阿弥陀仏の念仏を唱えることが仏に救われる道であると確信し、浄土宗を開宗したのである。 北門より入り、方丈へ廻る。まず刈り込みの枯山水の庭を見る。それから知恩院七不思議のひとつである鶯張りの廊下を通って、その廊下の鴨居にかかつている大杓子を見た後、方丈庭園へと下りる。そこには一本の枝垂れ桜が今を盛りと咲き誇っている。青い空に桜の花の桃色が映えて、誠に見事である。この大方丈は江戸初期の建物であるが、ここにはかつて足利尊氏が夢窓国師を開祖とした常在院があったとのことである。大方丈、小方丈前の庭園は当時の庭を受け継いだもので、鉤型に折れた地割りは南北朝の様式と言われる。この庭園は当時の原型の上に、寛永十八年三代将軍家光の時に片桐石見守が方丈を再建、同時に妙蓮寺の僧玉淵坊が量阿彌とともに作庭に加わったと伝えられている。この玉淵坊は江戸初期に活躍した石立僧で小堀遠州とも関係が深く、桂山荘(桂離宮)の作庭にも関わったと言われている。大方丈南庭は大きな池に望んでおり、右手にある大灯籠が目立つ。南庭は川のように思われる池に面しており、左手に青石橋があるのが特徴的である。この橋は紀州徳川家より寄進された青石を用いて造ったものである。石そのものには面白いものがあるが、庭全体としての印象はやや薄い。 小方丈南庭は皐月の低い刈り込みで造られ

青 蓮 院

青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。自らの皇子をその弟子としたのが門跡の始まりである。皇子覚快法親王が第二世となりそのあとを嗣いだのが、愚管抄で有名な第三世慈圓である。慈圓は台密の巨匠でありながら法然・親鸞を庇護し、法然の寂後その門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は、慈圓が法然に与えた院内の一坊跡で、これが知恩院の起源となったのである。また親鸞は九歳の時に慈圓に就いて青蓮院で得度しており、その寂後は院内の大谷にて墓と御影堂が営まれたのが、本願寺の起源である。それ故本願寺の法主は、明治まで当院で得度しなければ公に認められなかったという。また当院の脇門跡として、門跡を称することが認められたという。天台宗の祖最澄、そうして天台座主にして当院第三世の慈圓、その庇護を受けた法然の知恩院、親鸞の大谷本願寺と、仏教の大思想の大きな流れが、この地を源流としていることに想いを馳せると、青蓮院の日本仏教の歴史に於ける位置の偉大さがよく判る。慈圓はまた後鳥羽上皇より託された道覚親王を後継とする考えであったが、承久の乱後鎌倉幕府に阻止された。しかし慈圓没後二十年にして、道覚親王は第六世門主となりまた天台座主となったのである。       思 ひでは おなじ ながめ に かえるまで            心 に 残 れ  春のあけぼの        慈圓    見ぬ世まで  思 ひ のこ さぬ  ながめ より           昔にかすむ  春のあけぼの       良経     思 ふこと 誰に のこ して  ながめ おかむ           心にあまる  春のあけぼの         定家   塚本邦雄著の「世紀末花伝書」によれば、これらの歌は六百番歌合の中で、「春曙」として詠われたものという。大僧正慈圓の兄は藤原兼実でありその日記「玉葉」が著名であるが、その子が新古今の華・摂政太政大臣藤原良経である。良経にとって慈圓は叔父であり、後鳥羽上皇を軸とする新古今の和歌のサロンにおいて、二人共に重要な役回りを果

南 禅 寺 三 門

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今日はまだ桜の開花には一週間早いかと思いながらも、タクシーで南禅寺に向かう。運転手さんに「どこか桜の咲いているところはありますか」と聞くと、「ではひとつだけ咲いているところへお連れしましょう」と言うことで、岡崎公園の近くの京都会館横にある枝垂れ桜の処へと連れていってくれる。それはどこかの寮の庭から道路の方へと伸びた枝垂れ桜であり、思わぬ僥倖にカメラのシャッターを何度か押し続けた。そこから平安神宮の前を通って二条通りを直進し、白川に架かっている岡崎橋を渡って野村碧雲荘の所に出る。その辺りはとても閑静な邸宅が並んでおり、その通りにも一本の枝垂れ桜が咲いていた。 タクシーを南禅寺の三門の所で降りて、三門に登る。当門は南禅寺創建(一二九一年鎌倉後期)後数年後に、西園寺実兼の寄進により建立されたが、火災で焼失。現在の門は寛永五年(一六二八年)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で倒れた将兵を弔うために再建したものである。入母屋造り、本瓦葺きの禅宗式三門で、高さ二十二メートルである。向かつて右の山廊に拝観受付があり、そこより急勾配の階段を綱を持ちつつ登る。楼上からは京の町並みが遠望でき、眺望よし。楼内に宝冠釈迦座像が本尊として祀られている。三門の意は空門・無相門・無願文の意味で、仏教修行の三解脱を表すとのことである。日本三大門のひとつで天下竜門とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼という。楼内に狩野探幽、土佐徳悦の筆になり鳳凰、天人が描かれていることから名付けられたものかと思われる。門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の寄進で六メートル余りの高さがあり、東洋一の大きさである。 南禅寺 三門  

無 隣 菴

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  南禅寺より西方に向かい、動物園の前に出る。ここに無隣菴があるので、四時を回っていたが寄ってみると、まだ開いているので入園する。ここは明治の元勲山縣有朋が、明治二十九年に造営した別荘であり、有朋の長州の草庵が隣家のない閑静な場所にあったことから、無隣菴と名付けられたようである。庭園は、有朋の設計・監督のもと造園家小川治兵衛が作庭したもので、緩やかな傾斜地に東山を借景として疎水の水を取り入れ、三段の滝・池・芝生を配した池泉回遊式庭園である。建物は木造二階建ての母屋と、藪内流燕庵を模して造られた茶室、及び煉瓦造り二階建て洋館の三つから成っている。 最初母屋より、東山を借景とする庭の紅葉を愉しむ。それから三段の滝の所にまで回遊して、そこから母屋を臨む。流水式でもあり、なかなか風情がある。退蔵院の中根金作作庭の余香苑とイメージが似ている。また母屋に戻り抹茶を頂いて、それから洋館を見る。二階には江戸初期の狩野派による金箔花鳥図障壁画のある部屋があり、この部屋で明治三十六年に日露戦争開戦前の外交方針を決める「無隣庵会議」が開かれている。その時のメンバーは元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎の四人である。家具も往時の儘であり、緊迫した会議を偲ばせる。山縣有朋は庭園を造るのが趣味であり、椿山荘・新々亭(東京)・小洵庵(大磯)・古希庵(小田原)と言うように、各地に別荘を造っている。有朋はまた第二無隣菴も造っており、これは角倉了以の屋敷であった現在の「がんこ寿司二条苑」がその場所である。又これらの造築には小川治兵衛がいろいろと関わっており、治兵衛は有朋の知己を得て様々の造築に携わることによって、自らを大成していったとも言えそうである。もう一度庭を眺める。東山を借景として上手に造り上げた、風雅な趣のある庭である。 無鄰菴の庭

金 地 院

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  次は金地院に行く。金地院は室町幕府第四代将軍、足利義持が大業和尚に帰依して開創した寺である。当初北山にあったが、慶長の初めに金地院崇伝が南禅寺塔頭に移建したものである。金地院崇伝は徳川家康に近侍し、天海和尚と共に幕議に参画し、自らは天下僧録司として社寺を司り。寺門繁興、威勢すこぶる盛大であったとのことである。世に寺大名と呼ばれ、また「黒衣の宰相」とも喧伝され畏怖尊敬を一身に集め、後水尾天皇より円照本光国師の号を賜っている。 庫裏の横手の明智門より入山する。これは明智光秀が母の菩提を弔うため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものを、明治初年に当院に移建したものである。門を入ると、弁天池がある。その傍らの苔地が青々とした緑で美しい。そこから東照宮へ廻る。崇伝が家康の遺髪と念侍仏を奉戴して、寛永五年に造営したものである。ついで開山堂へ廻る。ここが崇伝長老の塔所である。塔所を過ぎると方丈前庭に出る。この庭は有名な小堀遠州の「鶴亀の庭園」である。むかし見たことがあるはずであるが、記憶にあるものよりは広々とした庭で、遠州の造った庭の内で代表的な枯山水庭園と言われている。前面の白沙は海洋を表すと共に宝船を象徴、正面に長方形の大きな平面石があり、これは東照宮の遥拝石である。その正面左手に枯れ滝の石組みがあり、燈籠が一基配してある。そして右に大きな松を配しその周りに石を立てた鶴島、左に下り松と石を横にした亀島がある。鶴島・亀島の規模が、庭の広さに比較して大きく雄渾かつ豪壮な造りである。鶴島の松の大振りの枝と、垂直に立つ石に力強さを感じる。また亀島のやや平たい石の配置も鶴島の立石と比して対照的である。 庭の後方中央に蓬莱石組みを組んであるが、鶴亀の島が大きくかつ前面に出ているので、余り目立たない感じがする。鶴島の左端の長方形の石が面白い。その手前には、飛び石がある。背景はやや大きな刈り込みを順に高く積み上げている。これは深山幽谷の山々を表しているとの由。全体的に枯山水としては極めて大きな構造であるために、かなりの迫力を感じるお庭である。強いて言えば、中心部の石組みがややこぢんまりしている点が、難点と言えようか。左手の楓が紅葉しているのが、その前の松の緑とコントラストを為していて興趣あり。 金地院の庭

天 授 庵

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書院南庭に廻る。この庭の池割から見ると、鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えているということである。東池と西池は流れで繋がっており、心字形を為している。東池には滝があり、手前に板橋が置かれている。板の橋を渡りながら、池に垂れ下がって紅葉している楓の木を愉しむ。また西池は東池より大きく、正面奥と右側に出島があり、これが心の字を形作っている。西池の東側を行くと、そこは飛び石で渡れるようになっており、また出島より石橋が西方に架かつている。右方の出島には灯籠がある。途中この庭も荒廃していた時期があり、慶長の再興の時に改造しているとのことである。またさらには明治の初めに蓬莱島や石橋を架けるなどの改造があり、明治期の特徴も持っているが、原型は鎌倉末期のものだそうだ。余り大きな庭ではないが、築庭に趣向を凝らしたなかなか風情のある庭である。南庭を見終わって帰路を歩いて東庭まで戻ってきたところで、先輩と出逢う。先輩は東福寺より北上してきたとのことである。写真を撮り合って別れる。 書院 南庭