投稿

圓 光 寺

イメージ
  曼殊院より詩仙堂の近くにある圓光寺に向かう。この寺の正式名称は瑞厳山圓光寺と言い、もとは徳川家康の建立になるもので、開山は三要閑室禅師である。一六〇一年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校の学頭閑室禅師を招いて伏見に圓光寺を開いて学校とした。 この学校は僧俗を問わず入学を許し、また多くの書籍を刊行したことで有名である。当寺には出版に使用された木活字が現存しており、宝物館に展示してある。当寺はその後伏見より相国寺山内に移り、さらに一六六七年に現在の一乗寺小谷町に移転された。 山内に入りまず庭園を一巡りする。小雨が降っており山内には若い一組の男女がいるのみである。庭園内には洛北で最も古いと言われている栖龍池というのがある。庭の奥には山裾に石段で登ったところに、徳川家康を祀った東照宮がある。その右手のほうは竹林となっており、規模は小さいが高台寺の造りに似ていると思った。また墓地ないには花の生涯のヒロインである村山たか女の墓もあるようだ。明治以降はつい最近まで臨済宗南禅寺派の尼寺であった、とパンフレットにはあるが、現在はどの宗に属しているのか、はたまた独立しているのかの記載がないのも不思議である。方丈に入り縁側より庭を眺める。正面に臥牛石と大きな灯籠があり、その向こうは楓樹の林となっている。栖龍池は残念ながらそこからは見えない。庭そのもののみならず、庭を囲む建物の位置も栖龍地の造られたころよりは随分と異なっ てきているのではないか、との感じがする庭である。ただ写真によれば紅葉のころは見事な景観を見せる庭となるようである。 圓光寺 庭園

曼 殊 院

イメージ
  次に小書院の方に廻り、庭園の左側を見る。正面の滝口は二つの立てた石の下部に、薄い平石を橋に見立てて架けてある。立てた石の右側は左のそれよりかなり高い石で、蓬莱山を思わせる。滝の流れはそこから手前に流れてきて、水分石に当たって川は大きな流れとなり、その右側の流れは大きく右奥に迂回して、右方に配されている石橋の下を通って、鶴島の右に広がる白沙の海へと流れ込んでいる。滝口の左には築山があり、そこには三重の石灯籠が置かれており、滝口付近の構図をより立体感のあるものとしている。一三五ミリの望遠を使って、その風趣ある構図の写真を何枚か撮す。折しもちょうど細かい雨が、庭にさらに潤いを与えようとするかのように、樹木の葉にあたり小さな雨音を立てながら、降り始めてきた。 小書院の入り口の手水鉢は梟の手水鉢と呼ばれており、下の台石は亀、傍らの石は鶴を形取っていると言われる。小書院内の狩野探幽筆の襖のある富士の間、玉座のある黄昏の間と小庭を見て、黄不動の絵の掛かつている部屋を見る。良尚親王(一六二九―一六九三年)は二十五歳より二十九歳まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動を祀って密教を極めたという。また下山しては御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々に茶華道を指導されたという。そして三十五歳の時、現在の曼殊院堂宇の完成をみて永住、以来四十年間、茶道、華道、香道、書道、画道を仏道修業の具現と悟達、それを通じて人間性の完成に精進されたとのことである。中庭には一文字の手水鉢と井戸があり、これも風情あり。曼殊院門前の茶店で鰊蕎麦と炊き込みご飯を食べる。 曼殊院 中庭 一文字 手水鉢

曼 殊 院

イメージ
  今日は曇り空であり、昼からは雨模様になりそうな日である。阪急で四条河原町に出て、そこからタクシーで曼殊院へ向かう。四条大橋を渡ってすぐ左折し、鴨川沿いに川端通りを北上する。出町柳の賀茂川と高野川の合流しているところから今度は高野川に沿って曼殊院通りに出る。この道を通るのは初めてであるが、特に高野川沿いの道に風情がある。小さな曲がりくねった道を通って曼殊院前の情緒ある参道に出る。  曼殊院はもともと傳教大師最澄の草創に始まっており、(八世紀)当時は比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。その後平安初期に曼殊院と改名され、現在地に移されたのは江戸初期である。桂の離宮を造営した桂宮智仁親王の次男良尚親王が十三歳で出家されると、父君桂宮は御所の北から当地に移ってきた曼殊院の造営に苦心された。建築、作庭の基本理念は細川幽斎から伝授された古今和歌集、古今伝授、源氏物語、伊勢物語、白氏文集などの詩情を形象化する事であったという。  山門の石段を登って院内にはいる。受付で荷物は預けて下さい、と言われる。特に肩からぶら下げるバッグは、途中で襖等に当たるので中には持ち込めないようになっているみたいである。カメラのみバッグから取り出して大書院に向かう。大書院から小書院の前に、名勝庭園として指定されている枯山水の庭が広がっている。 大書院の縁側の右端に座って、庭を眺める。白沙の向こうには霧島躑躅が並んでいる。そして左手には鶴島の五葉の松(樹齢四百年)が見える。今度は大書院の左端にある縁側の角に座す。正面に鶴島があり、その島の松の根元にキリシタン灯籠(クルス灯籠、または曼殊院灯籠とも呼ばれる)が見える。この灯籠は下の部分が十字架の形を表していることから、キリシタン灯籠と命名されている。左手には亀島と庭園の左隅には滝口の石組みが見える。この庭はこのコーナーよりのみ全貌を見渡すことが出来る。当院のパンフレットには遠州好みの枯山水と記してあるが、小堀遠州その人が作庭したという説もある。時代的には遠州の時代に作庭されており、当時は遠州の使った庭師が活躍した時代であったので、遠州の作庭手法が盛り込まれていることは間違いのないところである。庭の構成そのものは異なっていても、鶴島、亀島を大規模に造り上げ、滝口の石組みを配して、その手前は白砂としている点では、金地院の庭園とかなりの類似点があると考

しょうざん

イメージ
  「しょうざん」は鷹ヶ峰の南に位置している。昭和二十三年に創始者・松山政雄が着物の「しょうざん」をこの地に誕生させ、昭和二十六年より大庭園を造り上げていった。この「しょうざん」は、紙屋川に沿って造られている。紙屋川は平安時代には朝廷御用達の紙漉きに使われていた川であり、源氏物語の「蓬生」の巻に紙屋紙でしたためられた恋文が出てくることでも有名である。福徳門より北庭に入る。入ってすぐの処に、樹齢百年以上の北山台杉がある。根本の幹は太く、それが曲がりながら上へ伸びて枝分かれしている、背の余り高くない古松である。紀州の青石も沢山配置されている。茶室玉庵を過ぎて行くと、翔鳳閣の左手より小川が流れて、峰玉亭のほうへと向かつている。酒樽茶室の前を通って、峰玉亭の処に出る。そこより聴松庵の前を通って行くと、梅林の中に唐獅子の石像が見える。曲水を使った回遊式庭園である。紙屋川を挟んで造られた南庭は、川に懸かった紅葉が美しい。山側には五段の滝も造られており、興趣あり。 しょうざん

黄 梅 院

イメージ
  次ぎに黄梅院へ向かう。玄関を迂回して細い露地を通って、園内に入る。本院は一五六一年に春林宗俶禅師が創立した庵居黄梅院が前身で、釈尊三十二代目の法孫・弘忍大満禅師の縁の地である中国黄梅県波頭山東禅寺より命名されたという。春林和尚は信長の帰依を得ており、現在の建物は天正十年(一五八二年)の信長の葬儀後、三年余りの歳月を費やして秀吉が本堂、唐門を造営したものである。その後秀吉は小早川隆景に命じて、表門と庫裏を落慶させている。当院第二世の玉仲和尚の時である。玉仲和尚は秀吉の信を受け、山内に大政所のために天瑞寺を創建したそうである。院内には蒲生氏郷及び小早川隆景の御墓所、毛利家菩提寺の石碑もある。 本堂に上がる手前に直中庭がある。利休六十六歳の時の作庭で、秀吉の所望による旗印・瓢箪の池を手前に置き石橋を架けている。枯山水林泉庭園で、大徳寺第二世の徹翁和尚が叡山より持ち帰ったという不動三尊石を正面奥に構え、左手に清正伝承の朝鮮燈籠を配した苔庭の枯山水林泉庭園である。回廊よりの眺めに、迫力あり。 本堂前庭を波頭庭と言う。手前半分を白川砂で多い、その向こうを桂石で仕切って苔を配し、中央奥に石組みを組んでいる。右の石を観音菩薩、左の石を勢至菩薩と見なして、本尊阿弥陀如来は各自の心の内にあるものを拝せよということであるらしい。実に清浄且つ簡素な庭である。 本堂北側には作仏庭がある。枯れ滝の石組みに橋を架け、海に出たところに舟石を一つ置いている。枯れ滝の二つの立石が仏のようでもあり、雄渾な石組みが見事である。この流れが波頭庭の大海へと流れ込んでいる。「心如大海」である。 三つの庭それぞれに趣がある。そして建物の佇まいも極めて清楚である。作仏庭左には茶室があり、その手前に手水鉢と石組みがある。渡廊の左手にまた庭がある。これは茶室に面しており、楓樹が一本のみ紅葉している。茶室の前は小さな茶庭となっており、長方形と円形の飛び石の置かれた苔庭に、刈り込みと燈籠を配しており、これまた風趣あり。 大燈国師の遺墨「自休」を扁額に掛けている自休軒と呼ばれる部屋がある。この名前より「休」を取って、一休や利休の名前が出来ているそうである。利休の師であった武野紹鴎が造ったという昨夢軒と言う四畳半の茶室もある。書院造りの中にこの自休軒や昨夢軒も組み込まれていることより、囲い込み式と言われ

聚 光 院

イメージ
  大徳寺本坊の隣にある聚光院へ入る。本塔頭は織田信長の台頭迄京の派遣を握っていた三好長慶の菩提を弔うため、養子義継が笑嶺宗訴和尚を請じて一五六六年(信長入京の二年前)に建立したものである。聚光院は三好長慶の法号である。 方丈内の国宝・四季花鳥図は、狩野永徳二十四歳の作である。永徳は狩野元信の孫である狩野松栄直信の長男で、当院では父親の松栄が北の間を描き、息子永徳に中心となる部屋の絵を任せている。これも松栄が息子の器量と天才を把握していたからなのであろう。上間の間(檀那の間)も永徳の描く琴棋書画図である。松栄は下間の間の瀟湘八景図と北の間の豹虎図、遊園図を描いている。 方丈南庭は苔を敷き奥に水平線上に多くの石を配置した蓬莱式枯山水で、真ん中に石橋を架けている。中央左に松、右手に沙羅(夏椿)の樹を植え、庭の構成を整えている。よく見ると、左側の石組みの中で立てた石が効果的であるのが判る。また松の樹の枝振りも面白いと感ずる。三尊石もまた風情あり。夏椿の樹は右手前の中之島にあるが、この夏の水不足のためか枯れている。石組みのあるところは、やや盛り土が施されている。一面の杉苔は室町時代の趣味を表しているのであろうか。また石橋は檀那の間の琴棋書画の図(これも室町時代のものとしては良く保存されており、力強い筆跡で見応えあり)の中の石橋と、呼応しているそうである。百石の庭と呼ばれ、千利休作とも伝えられるが実際はそれよりは古く、作者不詳である由。  茶室閑隠亭は利休好みで採光を抑えており、三畳台目で客室二畳の上は竿縁天井、点前座一畳の上は蒲天井となっている。これは点前座の天井の材質を低くし、また天井そのものも低くすることで、主人の謙虚さを示すものという。当院開祖・笑嶺和尚は利休の参禅の師であり、利休の墓も当院にある。

芳 春 院

イメージ
  本日は秋の特別拝観寺巡りである。 最初は大徳寺の芳春院へ向かう。タクシーで大徳寺境内の北側へ廻り、そこから歩いて境内へと入る。そのコースで入っても、やはり信長の菩提寺である総見院の前を通り、大徳寺本坊の横から芳春院へ入ることとなる。この境内の道は京都の色々なお寺の中でも、最も趣のあるお寺である。 芳春院は一六〇八年に前田利家の夫人である松子が、玉室宗珀和尚(後水尾天皇より直指心源禅師の号を賜った)を開祖として建立。松子夫人の法号より、芳春院と名付けられた塔頭である。建物は一七九六年に全焼したが前田家が再建、明治以降に書院なども建てられている。近衛文麿の学問所でもあり、前田家の墓や片桐石州の墓も境内にある。 方丈前庭は禅院式枯山水の庭である。この塔頭は二十年以上前には常時一般公開されており、訪れた記憶がある白沙の部分が広く、左側に枯れ滝の石組みと滝壺を示す石があり、そこはやや盛り土がしてある。その周りには皐月の刈り込みがある。左手には三重の石塔が置かれている。滝の流れの左にある大石と、左手中央の平たい石が興趣あり。白沙の部分が多く、また刈り込みと樹木がちょうど程良く配されているためか、清浄且つ清楚な女性的な感じのする庭である。右手の枯れ滝に対し、左手にはやや高い樹木を植えてバランスを取っているのもよい。花岸庭と呼ばれ、昭和の名作庭家である中根金作氏の作庭である。庭としては第一級のものといえる。夏には桔梗の花が咲くことで有名であり、「桔梗の庭」とも呼ばれている。 裏庭は京都の名医・横井等怡(とうい)が小堀遠州と謀って、一六一七年に池を掘り橋を架け楼閣を造った。そして玉室和尚が飽雲池、打月橋、呑湖閣と命名して、師の春屋和尚の像を祀っている。金閣、銀閣、飛雲閣と共に、京の四閣と呼ばれている。池もさほど広くないが、右側の石組みなどに趣向を凝らしており、存在感のある景観を見せている。