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真 珠 庵

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  本日は如何にしても真珠庵を見るべく、やや早めに西宮北口を出る。大徳寺について、すぐに真珠庵へ入る。真珠庵は大徳寺四十八世の一休宗純禅師が草庵を建てた跡であり、応仁の乱で焼失したが、これを堺の豪商尾和宗臨が一休のために没後十周年の延徳三年(一四九一年)に再興した。 庫裡より入って、大きな井戸と石組みのある壺庭を渡ると、そこが方丈となっている。方丈の東庭が、細長い地面に十五の石を七・五・三形式に配列した室町期禅院式の枯山水庭園で、村田珠光の作庭と伝えられている。これは一休と関係の深かった文化人達の中で、村田珠光が一休に参禅し、その墓所も境内にあるところから、そういう言い伝えになったものらしい。連歌師宗長も一休との関係が深かったが、彼の日記の中にも、真珠庵に庭を造ったとの記載があり、宗長もこの庭に関係していたことが窺われると言う。この庭は、七・五・三の石の配列では、龍安寺と同型式であるが、庭そのものは酬恩庵一休寺の東庭と類似性が非常に高く、この形式を大徳寺式枯山水と呼ぶようである。しかし自分としては、この細長の枯山水から受ける興趣は、残念ながらやや少ない。 ついで客殿に廻る。この客殿はもとは正親町(おうぎまち)天皇女御の化粧殿(けはいどの)であったものを移築したもので、通遷院(つうせんいん)と呼ばれ、単層・入母屋造・柿葺の書院である。この通遷院に付属して、茶室庭玉軒がある。この二つの建物に面しているところに金森宗和作庭とされる瀟洒な平庭がある。この平庭には大小の石組みと右手の灯籠に加えて、わずかな樹木を配している。この庭は通遷院の前庭であると共に、茶庭として露地の役割をも持っており、趣のある庭である。この庭の説明を受けた後、茶室庭玉軒を鑑賞する。この茶室は草庵風の二畳代目の席であるが、庭のほうからにじり口を入ると蹲踞(つくばい)を配した土間となっている。これは金森宗和の生国が雪国飛騨高山であったことから、雪国の茶庭型式である内蹲踞のある土間を取り入れたものと見られており、他に類例を見ない名席の一つに数えられている。点前畳代目のほうに廻って、茶席を見る。点前畳代目に障子が三つあるのをのぞくと二畳台目の壁には障子はない。そして天井は全て侘びの表現を強調するかの如くに、蒲天井となっている。床の間は見ることが出来ないが、幽玄さを感じる茶席である。障子からの薄明かりのみ

高 桐 院

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ついで高桐院に行く。ここも人影が少ない。高桐院は門前、それから参道が石畳と落ち着いた緑に囲まれていて、何時来てもその端正さに心が洗われるような気がする。先ず松向軒の茶室から拝観する。松向軒は細川三斎お気に入りの茶席であり、二畳台目の席となっている。手前が主人座、その向こうが客座で、客座の角に小さな躙口がある。ついで書院を改造して広間の茶席として鳳来席を見る。この茶席より庭に下りたって、始めて細川三斎の墓を見る。この墓の墓石に使われているのは、三斎が利休から贈られた石灯籠である。利休が秀吉の所望を断るためにその蕨手の後ろの部分を欠けさせたと言われており、その為欠け灯籠とも呼ばれているものである。利休の秀吉への接し方を見ると、この件の他にもいろいろと秀吉の怒りを買うことを、わざわざやっているような処がある。その為に最後には切腹せざるを得ないことになったのであろう。松向軒を庭のほうからも見る。その後は、方丈に廻り、楓の庭を見る。若い女性五人のグループがいるだけで、他の人は誰もいない。彼女たちに頼まれて、庭を背景とした写真を撮って上げる。こういうシーズンはずれの京都の寺も、ゆっくりとしかも景観を独占できるという意味では、なかなか良いものである。 高桐院から、今宮神社に廻る。この神社そのものは、あまり見るべきものはない。神社のそばにあるいち和と言う店で、あぶり餅を食べる。小さな餅肉に串をさして炙り、それに黄粉のたれをつけて食べるものだが、なかなか鄙びたいい味であった。 高桐院 庭園  

金 福 寺

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  詩仙堂より金福寺へ廻る。この寺は貞観六年(八六四年)に慈覚大師が国家安泰衆生救済を念じて、自作の聖観音菩薩を祀って創建したお寺である。正式名称は佛日山金福寺と言う。その後荒廃していたが、元禄時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗となった。その頃に松尾芭蕉が、時々鉄舟和尚を訪ねて親交を深めていたので、人々は後丘の庵を芭蕉庵と呼ぶようになったという。時代が降り安永のころ、与謝蕪村一門が庵を再興したものが現在の芭蕉庵である。彼ら蕪村一門はしばしばこの庵で句会を開いたという。また当時は一時期井伊直弼の寵愛を受けたと言われる村山たか女の、晩年の栖家としてもその名を知られている。 狭い石段を登って境内にはいる。方丈に入る前に庭の全面を見る。方丈前の白砂、その向こう側と山畔は刈込みで被われていて、その上に芭蕉庵が見える。庭の左手奥に井戸があり、その傍らに曼珠沙華が一輪咲いているのが印象的であった。庭そのものはどちらかというと、特長の少ない庭である。方丈内を拝観して、芭蕉庵の方へ登り、まず蕪村の墓を見る。これは現代の墓石で作られているためか、俳句俳画で有名な文人蕪村のお墓にしては、やや風情が無さすぎる。蕪村は摂津の国の生まれであるが、江戸に出て修行の後、丹後与謝にて四十歳にして妻を得て、京に移り住み、五十三歳の頃よりやっと世に認められ始めたという。蕪村が再興した芭蕉庵は、きわめて質素なものであるが、そこより京の町の眺望が開けており、俳人達の集う庵としての風趣には富んでいる。   金福寺 庭園          金福寺にての句      うき我を さびしがらせよ 閑古鳥     芭蕉    耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵      蕪村    徂く春や 京を一目の 墓どころ      虚子 当寺に入り尼となって妙寿と改名し、明治の世まで生き延びて六十七歳の天寿を全うした村山たか女の生涯は次の通りである。たか女は彦根近郊の多賀社尊勝院の院王を父として生まれ、若くして二条家と九条家に仕えた。十八歳で井伊直亮の侍女となったが、二十一歳の折には侍女を辞して祇園で芸妓となっている。その後二十三歳で金閣寺の寺侍の世話を受け帯刀を産む。埋木の舎に出入りして井伊直弼の寵愛を受けたのは、たか女三十一歳の頃のことであった。その後長野主膳と知り合い、直弼が大老となってからは、京都に

詩 仙 堂

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  丈山はこの詩仙堂に凹凸カ十境を見立てている。入口に立つ(一)小有洞の門、参道を上り詰めたところに立つ(二)老梅関の門、建物の中に入り(三)詩仙堂、読書室である(四)猟芸巣(至楽巣)、堂上の(五)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(六)膏盲泉(コウコウセン)、侍童の間(七)躍淵軒、庭に下りて蒙昧を洗い去る滝という意の(八)洗蒙瀑、その滝の流れこむ浅い池(九)流葉泊、下の庭に百花を配したという(十)百花塢(ヒャッカノウ)がそれら十境である。そのほかに名高いものとしては、丈山考案の「僧都」(添水、一般には鹿おどしとも言う)も園内に配されている。 小有洞から老梅関に至る鬱蒼と茂った竹林の趣が、俗界からこの聖賢の住まいに入るための導入部として、誠に良くできていると前回も思ったが、もう一度訪れてみてその思いを強くした。やや薄暗い篁より老梅関を潜ると、そこには清閑な庭と建物の佇まいが現れる。そして詩仙の間を見て、書院の畳に座して刈り込みとその左手の庭を観賞する。この庭には洗蒙瀑から流れ込む流葉泊があるが、そこには手水鉢、石塔などがあり、刈り込みのみの庭よりは、こちらのほうが風趣があると思う。先程の圓光寺を見ていたころからの雨足が、やや強くなり樹木の葉に当たって音を立て始めた。それでしばらくゆっくりと座り込む。やがて雨足も小降りになってきた。そこでいったん入口から出て、残月軒のそばより庭にはいる。中段の庭から下段の庭に下りるところに、背の高い紫苑が二三本花を開いている。薄紫の清楚な色がこの庭に良く写る。下段に下りるその途中には芙蓉の花も咲いていた。十方明峰閣と呼ばれる座禅堂は、その建物も庭もやや詩仙堂の風趣とはあわない感あり。 いまの庭は丈山没後、百年して改修されたと書かれてあるが、いずれにしてもこのような山畔を利用して、趣のある庭を造り上げた丈山の創意はなかなかのものである。景色としては中段の池のあたりから、斜面正面の篁を望むところがよいと思われた。 詩仙堂 庭園

詩 仙 堂

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   圓光寺より詩仙堂に廻る。現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸カ(穴+果)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名前の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、その画に石川丈山自らが各詩人の詩を書いて、四方の壁に掲げた「詩仙の間」より取られている。  石川丈山は天正十一年(一五八三年)に三河の国(安城市)の徳川譜代の臣の家に生まれ、丈山も十六歳で家康に使えた。松平家、本多家はその縁戚である。三十三歳の時大阪夏の陣で功名を立てるべく病を押して奮戦したが、軍律違反を咎められ蟄居の命を受けてしまった。為にこの役を最後に徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(セイカ)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野公に十数年使えた。そうして母の没後五十四歳で京に戻り、相国寺のそばに棲んだが、五十九歳で詩仙堂を造営した。爾来清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとして、九十歳の天寿を全うした。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また煎茶(文人茶)は日本における開祖である。 詩仙堂

圓 光 寺

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  曼殊院より詩仙堂の近くにある圓光寺に向かう。この寺の正式名称は瑞厳山圓光寺と言い、もとは徳川家康の建立になるもので、開山は三要閑室禅師である。一六〇一年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校の学頭閑室禅師を招いて伏見に圓光寺を開いて学校とした。 この学校は僧俗を問わず入学を許し、また多くの書籍を刊行したことで有名である。当寺には出版に使用された木活字が現存しており、宝物館に展示してある。当寺はその後伏見より相国寺山内に移り、さらに一六六七年に現在の一乗寺小谷町に移転された。 山内に入りまず庭園を一巡りする。小雨が降っており山内には若い一組の男女がいるのみである。庭園内には洛北で最も古いと言われている栖龍池というのがある。庭の奥には山裾に石段で登ったところに、徳川家康を祀った東照宮がある。その右手のほうは竹林となっており、規模は小さいが高台寺の造りに似ていると思った。また墓地ないには花の生涯のヒロインである村山たか女の墓もあるようだ。明治以降はつい最近まで臨済宗南禅寺派の尼寺であった、とパンフレットにはあるが、現在はどの宗に属しているのか、はたまた独立しているのかの記載がないのも不思議である。方丈に入り縁側より庭を眺める。正面に臥牛石と大きな灯籠があり、その向こうは楓樹の林となっている。栖龍池は残念ながらそこからは見えない。庭そのもののみならず、庭を囲む建物の位置も栖龍地の造られたころよりは随分と異なっ てきているのではないか、との感じがする庭である。ただ写真によれば紅葉のころは見事な景観を見せる庭となるようである。 圓光寺 庭園

曼 殊 院

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  次に小書院の方に廻り、庭園の左側を見る。正面の滝口は二つの立てた石の下部に、薄い平石を橋に見立てて架けてある。立てた石の右側は左のそれよりかなり高い石で、蓬莱山を思わせる。滝の流れはそこから手前に流れてきて、水分石に当たって川は大きな流れとなり、その右側の流れは大きく右奥に迂回して、右方に配されている石橋の下を通って、鶴島の右に広がる白沙の海へと流れ込んでいる。滝口の左には築山があり、そこには三重の石灯籠が置かれており、滝口付近の構図をより立体感のあるものとしている。一三五ミリの望遠を使って、その風趣ある構図の写真を何枚か撮す。折しもちょうど細かい雨が、庭にさらに潤いを与えようとするかのように、樹木の葉にあたり小さな雨音を立てながら、降り始めてきた。 小書院の入り口の手水鉢は梟の手水鉢と呼ばれており、下の台石は亀、傍らの石は鶴を形取っていると言われる。小書院内の狩野探幽筆の襖のある富士の間、玉座のある黄昏の間と小庭を見て、黄不動の絵の掛かつている部屋を見る。良尚親王(一六二九―一六九三年)は二十五歳より二十九歳まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動を祀って密教を極めたという。また下山しては御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々に茶華道を指導されたという。そして三十五歳の時、現在の曼殊院堂宇の完成をみて永住、以来四十年間、茶道、華道、香道、書道、画道を仏道修業の具現と悟達、それを通じて人間性の完成に精進されたとのことである。中庭には一文字の手水鉢と井戸があり、これも風情あり。曼殊院門前の茶店で鰊蕎麦と炊き込みご飯を食べる。 曼殊院 中庭 一文字 手水鉢