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伏 見 桃 山 城

寺田屋から、伏見桃山城へと向かう。坂道の高級住宅街を登って行くと、伏見桃山城と、遊園地のあるところに着く。お城の下から見上げると、この城郭は想像以上に雄大であることに驚く。三層の小天守閣を持つ五層の大天守閣は、写真からのイメージよりは雄壮かつ華麗である。小天守と大天守との組み合わせが、このお城の特徴でありまた華麗さを印象づけるものになっていると思う。大天守の上の金鯱も、その構成の華麗さにさらに色を添えるものとなっている。 本来の伏見城は、二つある。文禄三年(一五九四年)に秀吉は大坂城を秀頼に譲って、指月伏見城を築城、完成させた。しかしこの城は文禄五年の伏見大地震で壊滅し、秀吉は九死に一生を得た。秀吉はこの経験を生かして、築城地として地盤の確かな木幡山に木幡山伏見城を築城し始めている。しかしこの年秀吉は六十一歳であり、二年後には没している。たぶん秀吉は、木幡山伏見城の完成を見ないままでなくなったと考えられる。しかしそれにしても秀吉は建築道楽であり、桃山から江戸初期の京都近辺の有名な建造物は、直接間接に秀吉の建築道楽の影響を受けていると考えて差し支えあるまい。秀吉の富の源泉は、どちらかというと米の石高によるよりは、金山経営や国内及び海外との交易のなかから得たものが多いと言われるが、その富で築いた桃山文化のなかでは、建造物に日本を代表するものとして残っているものが多い。秀吉自身も聚楽第と言う豪華な建造物を造ったが、残念ながらこれは西本願寺にある飛雲閣にその名残を留めるのみである。秀吉の猶子でもあった桂宮智仁親王が造った桂離宮、そしてその子良尚親王の教えを受けた後水尾天皇の造築した修学院離宮など、その秀吉との繋がりの糸が偲ばれ、秀吉の桃山文化とその建築道楽が、いかに日本のそして京都の芸術的遺産に貢献しているかが判るのである。 天守閣の入り口前には、秀吉の馬印の千成り瓢箪が飾られている。お城のなかは資料館などとなっており、そこには秀吉の黄金の茶室を再現したものも展示されている。六階まで上がり、京都市を遠望する。実際の伏見桃山城は現在のものよりはやや南東にあったとのことであるが、秀吉はこの天守閣に登って京の町を、そして日本国を支配していることの満足感を、何回となく味わったのであろう。夕暮れ時を迎えて、京の町並みは淡い霞に覆われて静かに横たわっていた。 ========

寺 田 屋

  城南宮より赤煉瓦造りで有名な松本酒造や、月桂冠の旧本社社屋前を経由して、寺田屋に到着する。この幕末の舞台となった有名な旅籠は、想像していたものよりは小さいと感ずる。この寺田屋を舞台として、文久二年には薩摩藩の急進派を島津久光が急襲した、壮烈な同士討ちとなった寺田屋事件、そして慶応二年には幕吏の急襲から間一髪で逃れた坂本龍馬の事件が起きている。右手の庭にある坂本龍馬の像と、龍馬を助けそしてお龍と結婚させたた女将お登勢を祀るお登勢天神(縁結びの神)を見る。 それから寺田屋内に入る。屋内もたぶん昔の儘なのであろうが、意外と古びてはいない。まず二階に上がる。龍馬が好んだのは梅の間であり、その入り口の柱には刀傷が残っている。ここに居た龍馬に一階の風呂場から裸で飛び出したお龍が、急を告げて龍馬が逃れたという。床の間にある龍馬の肖像画は、お登勢が無理矢理描かせたもので、この肖像画をもとに円山公園の銅像が出来たという。龍馬については近時西郷吉之助の手下ではなかったか、と言うことも言われ始めているが、事実はどうあれ維新の流れを大きく変えるのに、功績大であったことは間違いないところである。一階に降りて、茶の間らしきところで番茶を頂く。

城 南 宮

  今日は今まで廻ったことのない、鳥羽伏見を訪問する。阪急で四条烏丸まで出て、そこから地下鉄で最南端の竹田まで行く。竹田から車で、城南宮に向かう。この城南宮は、上古時代に神功皇后(息長帯日賣命おきながたらしひめみこと)が、軍船にたてた御旗を、八千矛神(やちほこのかみ大国主命)の御霊を憑けて当地に納められたのが始まりという。その後平安遷都の折りに、国常立尊(くにとこたちのみこと)を合祀し、都の南方を鎮め国を護る城南明神と仰がれるようになったという。平安末期に白河上皇は、賀茂川流域の水郷の当地を選んで鳥羽離宮を造営し、この地で院政を摂られた。そのため当地は一時は都のごとく賑わい、なかでも秋の祭礼は行粧華麗 (ぎょうそうかれい)に行われたという。この城南宮は熊野詣でなどの折の、方除け(ほうよけ)の為の御幸や精進所として有名であった。しかしその鳳池壮観を極めた離宮も、応仁の乱により荒廃してしまった。その後は江戸時代末期から明治にかけて、再度「方除けの城南宮」として親しまれ始め、今日に至っている。       社頭祝         後鳥羽院御製     つたえくる 秋の山辺の しめのうちに     祈るかいある 天の下かな            祈雨社頭祝       藤原良経     民の戸も 神の恵みに うるうらし     都の南 宮居せしより 国道一号線よりの西鳥居より入る。参道を進んで行くと、大きな城南鳥居の前に来る。正面手前に拝殿、その奥に本殿が建ち並んでいる。本殿にて参拝のあと、神苑(楽水苑)に入る。最初は裾に禊ぎの小川が流れている「春の山」から見る。これは鳥羽離宮当時の築山と言われている。夏草の小径を経て藪椿竹林を過ぎると、神殿の背後に出る。そこまでの印象はえらくこじんまりとしたものだなと思ったが、それは平安神宮の神苑のイメージがあるからかもしれない。神殿の東側に出てくると、やや景観が開けてくる。そこが「平安の庭」である。中央に池が造られていて、段落ちの滝・中之島・池汀や野筋に野草が群生する野趣ある秋野の景観となっている。春の山に対しての秋野なのである。曲水の宴のための遣水(やりみず)も苑内に流れており、平安時代の雰囲気を醸し出している。四月と十一月には修禊の行事にもとずいて曲水の宴を、この庭で行っているとのことだ。 「平安の庭

今 熊 野 観 音

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  最後に訪れたのは今熊野観音寺である。ここでは今紅葉祭を開いており、境内の紅葉が美しい。当寺もまた弘法大師の開いたお寺であり、西国三十三ヶ所の第十五番札所である。知恵の観音・頭痛除けの観音として、信仰されているようだ。ここでは紅葉の葉の陽を透かしたクローズアップを、何枚かカメラに収める。この今熊野観音を京の紅葉狩りの締めくくりとする。 今熊野観音の紅葉

泉 涌 寺

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  将軍塚より今度は泉涌寺に行くこととする。東山ドライブウェイを下がり五条坂を降って東大路通りに出て、泉涌寺道に入る。東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かに佇む泉涌寺は「御寺(みてら)」として親しまれているようである。 この地はもともと弘法大師が庵を結んだところで、最初は法輪寺と名付けられその後仙遊寺と改称されたが、鎌倉時代の初め順徳天皇の御代(一二一八年)に、当寺の開山と仰がれる月輪大師が時の宋の方式を取り入れてこの地に大伽藍を営んだ。その折りに寺域の一角より清水が湧き出たことにより、寺号を泉涌寺と改めたという。月輪大師は宋に渡って仏法に奥義を極め、帰国後は当寺において律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室も大師に深く帰依し、一二四二年に四条天皇が当寺に埋葬されてからは、歴代の天皇の山稜がこの地に営まれることとなり、爾来皇室の御香華殿(菩提所)として篤い信仰を集めている。境内には仏殿・舎利殿を始め、天智天皇以降の歴代天皇の御尊碑を祀る霊明殿などの伽藍が配置されている。 大門を入ると、正面に仏殿と舎利殿が前後に並んでいる。最初に楊貴妃観音殿を見る。唐の玄宗皇帝は今は亡き楊貴妃を偲んで、等身大の聖観音菩薩座像を造らせたという。その像が建長七年(一二五五年)に中国より当寺に将来されたものであるという。優しく、優美であでやかなお顔をされた観音様であった。当日はちょうど本坊が公開されており、本坊に上がって庭園を鑑賞する。楊貴妃観音を拝した直後のためであろうか、このお庭も優美さと繊細さと気品に満ちた池泉鑑賞式庭園であると感じる。紅葉の数は少ないが、それがかえってこの庭が簡素で整った庭であるとの印象を強くするかのようであった。 泉涌寺 庭園

三 室 戸 寺

黄檗駅に出て、また京阪にのって三室戸駅で下りる。そこより歩いて二十分位の山裾に、三室戸寺の入り口がある。当山は西国観音霊場十番の札所で、本山修験宗の別格本山である。天平時代末期の光仁天皇の勅願により、いまから約千二百年前に創建され、本尊は千手観世音菩薩である。なだらかな坂道を登って行くと、右手に大きな紫陽花園、と躑躅の植え込まれた丘が見える。石段を登って行くと、本堂がある。本堂の前には、法金剛院と同じく蓮の植えられている大瓶が並んでいる。蓮の開花する時期には、さぞかし見事であろうと思われる。本堂にお参りして、その奥の三重塔を見る。江戸時代の建築物である。石段を下りて、今度は与楽園を見る。ここには中根金作氏作庭による枯山水と池泉庭園がある。それぞれに、庭としての構成は整ってはいるが、開いている土地に設えたという感じがありありとしており、やや風情に欠けるのは残念である。庭というものも寺院等の建物があり、そして塀や山などの庭の空間を限定するものがなければ、いくらできばえの良い庭であっても、残念ながら風趣を味わうことは出来ないものであると言う感じを強く持った。    夜もすがら 月をみむろと 我ゆけば           宇治の川瀬に 立つは白波  花山天皇御製  

黄 檗 山 萬 福 寺

白雲庵を出て、黄檗山萬福寺に入山する。当寺の概略には「洛南宇治、妙高峰の裾野、萬緑の古松が千歳普遍の法を語るが如き景勝の地に、明朝様式の諸堂伽藍が整然と佇む黄檗山萬福寺は、日本三禅宗のひとつ、黄檗宗の大本山であり、本宗専門道場が置かれている」と記してある。開山は臨済宗正伝三十二世の隠元禅師である。禅師は二十九歳の時に中国福建省の黄檗山萬福寺において出家し、各地での十七年の修行の後、萬福寺の住持となった。その名声は日本にも聞こえ、日本より再三の招聘を受けるようになった。そしてついに一六五四年に長崎に渡来、後水尾天皇、四代将軍家綱、妙心寺住持の龍渓禅師など朝野をこえて多くの方の帰依を得られた。そして一六六一年に本山を普山されたという。中国の黄檗山は、臨済義玄の師である黄檗希運禅師の修行の地としても有名である。 入口の総門は朱塗りの四脚門で、左右を低く中央を高く作られている。屋根にはインドから伝わるマカラと言う想像上の動物が置かれている。門を入ると、右手に放生池があり、参道には菱形の石が敷かれている。山門の左手には、白雲関と言う明風の門がある。ここから白雲庵の名が取られたのだと思う。立派な三門を潜って行くと、正面が天王殿である。そこから斎堂のほうに廻り、魚の形をした木鐸を見て、本堂内にはいる。堂内には十八羅漢が祀られているが、本堂正面の卍くずしの組子と月台以外には、あまり中国風の造りはない。本堂より禅堂前を通って、回廊を下って、開山堂に行く。昔見たときの印象では、随分と中国風のお寺だなと思っていたが、今般見てみると、その感じがやや少ない。当寺の拝観券は木鐸の形をしており、そこには次の言葉が記されている。   謹 白 大 衆 (キン ペ ダー チョン)   生 死 事 大 (セン ス スー ダ)   無 常 迅 速 (ウー ジャン シン ソ)   各 宜 醒 覚 (コー ギ シン キョ)    慎 勿 放 逸 (シン ウ ファン イ)