投稿

不 退 寺

イメージ
不退寺は平城天皇の孫であった在原業平の建立になるお寺である。この地は平城天皇が嵯峨天皇に譲位した後に茅葺きの御殿を造営し、「萱の御所」と呼ばれたこともあるところである。この平城天皇の即位に至るまでには、また様々な事件が起きている。まず道鏡を寵愛した称徳天皇(孝謙天皇)のあと、天智系の白壁王が光仁天皇として六一歳で即位。そして高野新笠を母とする山部親王を擁する藤原百川の陰謀で、井上皇后・他戸(おさべ)皇太子が廃されて獄死。その山部皇太子が即位して桓武天皇となったが、この折りにも造長岡京使・藤原種継の暗殺に絡んで、実子安殿(あて)親王を後継とするために早良皇太弟が淡路島に流される前に、乙訓(おとくに)で憤死している。こうして安殿皇太子は桓武没後即位して、平城天皇となったが、その直後にも異母弟伊予親王の謀反の疑いが発覚、伊予親王は母の吉子と飛鳥の川原寺に幽閉され自殺している。平城天皇は自らの即位の裏側で死に至った早良親王と伊予親王の怨霊から逃れるため皇太弟であった嵯峨天皇に譲位したわけである。しかし平城上皇は重祚を狙って、平城京遷都を命令。二所朝廷が対立。そして平城上皇の寵愛する藤原仲成・薬子の兄妹の官位が剥奪されたのに激怒した平城上皇は、東国に挙兵しようとするが失敗。上皇は出家し、薬子は自殺する。これが藤原薬子の乱である。以上が平城天皇の即位に至るまでの歴史と、平城天皇自らの略歴であるが、最後は敗者として出家した平城天皇の皇子・阿保親王の第五子であり臣籍降下した在原業平は、嵯峨天皇の子孫である天皇家に対してかなり屈折した思いを抱いていたであろうことが疑いのないところであろう。それが清和天皇の女御となる予定の藤原良房の姪・高子との恋愛事件である。清和天皇は嵯峨天皇の曽孫であり、皇統は嵯峨天皇、その皇太子・仁明天皇、その皇太子・文徳天皇、そして文徳の皇太子・清和天皇の順である。こうしてみると業平の高子への懸想と恋愛は、敗者側からの反逆であり挑戦であったのだろう。しかも高子入内の時の清和天皇の年齢は十七歳で、高子は八歳年上の二十五歳である。年齢的には業平との間の方が自然であるようにも思える。この事件は「源氏物語」を書いた紫式部に、光源氏とその異母兄・朱雀院のお后候補であった朧月夜との入内前の恋愛事件として描かれている。この事件のために朧月夜は后候補としてではなく内侍として入内

不 退 寺

イメージ
  海龍王寺より、不退寺に向かう。地図を見てみると秋篠寺の東側には秋篠川が南下しており、不退寺の南側を佐保川が蛇行しており、この二つの川に挟まれたその中間に平城京の大極殿趾がある。秋篠川は秋篠寺、西大寺、尼ヶ辻の唐招提寺、薬師寺の東側を流れて、大和郡山市の東北で佐保川と合流している。一方佐保川は春日山の裏手より発し、若草山を迂回し東大寺と般若寺の間を流れ、不退寺、海龍王寺、法華寺と来て新大宮で南下し秋篠川と合流している。秋篠川と合流した佐保川は高瀬川などと合流しつつ、額田部町あたりで大和川(初瀬川)と合流することとなる。大和川は宇陀郡の室生の奥より、室生寺、榛原、吉隠(よなばり)、長谷寺、と西行し、そこから西北に天理を抜けて佐保川と合流し、明日香から北上する飛鳥川や北より南下してきた富雄川、そして生駒から南下して龍田神社の側を流れてきた龍田川とも合流して、王寺を抜け金剛生駒山地の南端の谷間を通って、大阪平野へと出る。その藤井寺は天皇陵の集中しているところであり、応神天皇陵・安閑天皇陵・清寧天皇陵・日本武尊陵など十を超える前方後円墳が見られるところである。大和川はこのあと松原を通過して住吉区と堺市の間で大阪湾へと流れ込んでいる。大和川は今は住吉大社よりかなり南で海に流れ込んでいるが、その蛇行しているところから見れば、昔住吉大社が海に面していた頃には大和川は住吉大社の側で、難波の海に注いでいたのかもしれない。 こうしてみると平城京は秋篠川と佐保川の流れに沿った都であり、飛鳥京・藤原京は飛鳥川によってなる都であった。そうしてこの二つの川の合流するところが、聖徳太子の斑鳩宮であるということを考えると、上代においては川が如何に都にとって重要であったかということの証左であろう。また平城京そのものが春を紡ぎ出す女神である佐保姫に縁のある佐保川の流れに位置し、その佐保川が初瀬川と合わさり大和川となり、斑鳩宮の近くを流れる秋の山野を彩る女神の龍田姫に縁のある龍田川と合流して難波の海へと流れ出るというのも、いかにも奥床しい。春の花・秋の紅葉という自然の美を讃えその力を認めていた古代人にとって、川の流れを佐保姫・龍田姫というように人称化し、春秋の女神を信じることは極めて当たり前のことであったのだろうが、そこには日本古来の自然と睦み合いながら人生を送って行くという大きな智慧が底流にある

海 龍 王 寺

イメージ
法華寺の東隣にある海龍王寺に行く。このお寺は平城京の北東隅にあったので、隅寺または脇寺と呼ばれているそうである。天平三年(七三一年)光明皇后の御願によって藤原不比等の旧宅を仏閣と改め、唐より帰還してきた僧・ 玄昉 (げんぼう)を開基として創建された。 玄昉 は唐よりの帰還途中に暴風雨にあったが、東支那海の狂瀾怒濤に漂いながら海龍王経を唱え、九死に一生を得て種子島に漂着、貴重な経綸を持って帰京している。その功により 玄昉 は僧正に任ぜられ、この海龍王寺の住持となったのである。この 玄昉 は吉備真備とともに、聖武天皇の側近として仕えた僧である。 草の生い茂った参道を進み、入山して境内に入る。境内には本堂と西金堂が立っているが、全体として荒廃したお寺という印象を受ける。本堂に上がる。堂内には鎌倉時代の作と言われる、十一面観音が安置されている。鎌倉時代の作であり、宝冠や瓔珞など極めて装飾性が高く、作りも華奢である。しかし御仏のお顔立ちは気品に満ちており、心惹かれた。京都の法金剛院にも鎌倉時代の作という十一面観音があったが、その観音様との類似性が強いように思う。お寺のパンフレットにはこの十一面観音の記述は無いが、もう少し注目されて良い仏様のように感じた。 またこのお寺には国宝の五重小塔があることでも有名である。 海龍王寺  

法 華 寺

イメージ
  秋篠寺より法華寺に廻る。この法華寺は光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として始められた、法華滅罪之寺である。そしてこの地所はもともと藤原不比等(鎌足の子)の邸宅趾であった。藤原不比等は皇統が天智系より天武系に移った後も、智努王(ちぬおう)の夫人であった橘三千代を迎えてこれと結婚し、その娘光明子を聖武天皇の后とすることで政権の実権を握った実力者であった。創建は七四〇年頃といわれるので、秋篠寺より五十年余り前である。 門を潜ってはいると、右手に横笛堂がある。そこから鐘楼を左手に見ながら、本堂前に来る。本堂は豊臣秀頼と淀君が片桐且元を奉行として再建した、寄せ棟造りの桃山建築である。本堂に登り、十一面観音菩薩を拝する。この菩薩は光明皇后のお姿を写したものと言われているが、実際には弘仁期(平安時代八〇九年 ~ 嵯峨天皇の御代)の作であることからこれは事実ではないが、光明皇后への讃仰のなせる業なのであろう。本堂内陣に拝する十一面観音像は晴天のため、障子を通して入る陽光が極めて明るくそのお顔もはっきりとよく見える。この御仏も極めて人間的で且つ艶めかしいが、伎芸天のあまりに洗練された清浄な艶めかしさに接した直後のためか、やや生々しすぎるという感じが強い。これは明るすぎて陰影がなさ過ぎるということにも、起因しているのかもしれない。堂内には横笛が滝口入道と交わした文がらをもって作られたという横笛像がある。これは「平家物語」や高山樗牛の「滝口入道」に描かれている悲恋話である。横笛はかっての恋人であった建礼門院の雑司・滝口入道を慕って嵯峨を訪れたが、入道に拒まれてしまう。そして入道は女人禁制の高野山に入ってしまう。伏見で尼となった横笛が、憂悶の情を法華寺の尼に書き送ったその文をもって作られたのが横笛像と言われている。他に重要文化財の維摩居士像もある。 法華寺 本堂

秋 篠 寺

イメージ
本堂の中には麗しの伎芸天が待っておられる。頭部は天平時代の作で乾漆彩色造りであり、体部は火災にあった後鎌倉時代に寄せ木造りで造られており、像高二メートル余りの仏様である。密教の経典によれば、この伎芸天は大自在天の髪際より化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主催し諸技諸芸の祈願を納受し給うと説かれているそうである。古くは各地にて信仰されたと思われるが、現在残っている伎芸天は当寺の一体のみであるという。 天部の由来は次の通りである。天部は仏教以前からインドにあったバラモン教・ヒンズー教の神々を取り入れて守護神としたもので、本来天界に住むので天と呼ぶ。天部の諸像は様々で甲冑を着けた神王形の天部と、天衣を纏う天女形の天部とがある。神王形としては四天王・十二神将・金剛力士・梵天・帝釈天(女性的服装の下に甲を着ける)・大黒天などがあり、天女形には自然が神格化された吉祥天・弁財天・日天・月天・伎芸天・鬼子母神などがある。一般的に男性の天は甲冑を着けその下に上衣・股下衣・裳を着け沓を履いて足下に邪鬼を踏みつける姿が多い。また女性の天はひれ袖の付いた長い袂の上衣を着け下着と裳を纏って沓を履くという姿が多い。これ以外にも天竜八部衆の夜叉や迦楼羅(かるら)阿修羅などと共に、男女二天(夫天が象頭、婦天が猪頭のものもある)の抱擁する形姿の歓喜天(聖天)などの異類の姿を示している天部もある。これらの諸天は仏教の守護神という性格から、やがて人々に現世の後利益をもたらす神として信仰されるようになったという。 天平時代の仏像は一時代前の白鳳時代に伝えられた初唐系統の様式を、我が国人の感覚に形を整えて造られたものが多いと言われている。この伎芸天もその影響からかお顔がかなり日本的になり、白鳳期の仏像よりもより人間に近い容貌となっているように思われる。この時代の代表的な仏像としては、東大寺法華堂の不空羂索観音、日光・月光菩薩、興福寺阿修羅像、東大寺戒壇院の広目天、普賢寺・聖林寺の十一面観音などがあるが、いずれのお顔も白鳳時代の代表作である薬師寺の薬師三尊・聖観音菩薩や法隆寺の夢違観音などと比較すると、仏様然としたお顔立ちと言うよりももっと人間に近いお顔となっている。写真集で見るとお顔の造りそのものはお顔の豊満さといいその幅広のお鼻や肉厚の唇といい、三月堂の不空羂索観音とよく類似しているように思わ

秋 篠 寺

イメージ
  今日は奈良の北西部の、秋篠町・法華寺町・左保路から東大寺を廻る順路での古寺巡礼である。最初に秋篠寺に行く。当寺は奈良時代末期の宝亀七年(七七六年)に、光仁天皇の勅願により平城京大極殿の西北の高台に造営が始められ、次代桓武天皇の時代に平安京遷都と共に完成された。その意味で平城京時代最後のお寺である。開基は善珠大徳僧正で、本尊は薬師如来である。もともとは法相宗のお寺として創建されたが、その後真言宗・浄土宗を経て昭和二十四年に単立の宗教法人となっているお寺である。光仁天皇までの皇統は天武天皇以来全て天武系であり、天武・持統・文武・元明(文武の母)・元正(元明の娘)・聖武・孝謙(阿倍皇女)・淳仁(天武の孫)・称徳(孝謙の重祚)と続いている。しかし孝謙上皇が祈祷によりその病を快癒させた僧道鏡を寵愛し、淳仁天皇を廃位させ淡路島に配流させ、ついには淳仁天皇が没したこと。また道鏡を太政大臣禅師そして法王とし、ついには道鏡を皇位につけようとしたこともあり、皇位は天智系の六一歳の白壁王のもとに転がり込んできたのであった。しかしながらこの光仁天皇の周りにも悲劇は起きる。それは聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた井上皇后とその皇子・他戸(おさべ)皇太子が天皇呪詛の嫌疑で廃され、二人ともに獄死してしまったことである。これは百済からの渡来人の子孫である高野新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)を見込んだ、藤原百川の謀略によるものと言われている。歳いった天皇が何の権力的な背景もないままに皇位に登り、そのために長年連れ添うた皇后とその息子を、政略のために失ってしまったのである。無力感に苛まれ、そして糟糠の妻とその子を死に至らしめた罪悪感の中で、光仁天皇はこの秋篠寺の建立を思い立ったのであろう。そして開基は僧正善殊大徳である。この善殊もまた奇異な伝説の中に生まれている。それは善殊は文武帝の夫人であった皇太后藤原宮子と僧玄肪の密通の子であるという言い伝えである。皇太后宮子は首(おびと)皇太子で後の聖武天皇の母后であるが、あまりに若くして寡婦となったために鬱病に罹った。その彼女が玄肪を見て生まれ変わったように生き生きとなった。それから皇太后宮子と僧玄肪の隠された秘密の恋が始まったという。玄肪は第八回遣唐使の一員として、吉備真備や阿倍仲麻呂らとに唐に渡り苦難の末帰国して、吉備真備とともに聖武天皇に仕えてい

薬 師 寺

イメージ
金堂から、東院堂に行く。この御堂には白鳳時代の仏像の中の最高峰とも思われる、聖観音菩薩立像が安置されている。菩薩とは「菩提薩タ(土+垂)」の略で、自ら成道を目指すと共に衆生を教化救済することを誓って、現在修行中の仏である。そしてその姿は出家前の釈迦、すなわちインドの貴族の姿を基本としている。この菩薩のうち聖観音菩薩は密教成立後に出てきた十一面観音や千手観音と区別するために、それ以前の根本の観音として正観音菩薩とも呼ばれる。法隆寺の百済観音・夢違観音・救世観音などは、全てこの聖観音である。そして正しくは「観世音菩薩」もしくは「観自在菩薩」と呼ばれている。成立は弥勒菩薩と並んで極めて古い。人間の住む娑婆世界の南方海上の補陀落山に住むと説かれる。危難・苦悩から人々を救う現世利益的な霊験を持ち、救済すべき相手に応じて仏身やバラモン身に姿を変えて出現すると信じられ、それを「観音の三十三変化」と言う。 その聖観音菩薩のお姿を拝する。まず二重円身光とブロンズのお体は、日光・月光菩薩と同様である。しかし頭上には宝冠はなく、宝髻のみのすっきりとしたお姿である。以前は宝冠を被られていたのかもしれない。お顔は気高く澄み切った表情をされている。そしてお体は日光・月光菩薩と比較すると、やや細身ですらりとされている。首には三道が見え、その下には優美な瓔珞が胸元に垂れ下がっている。お腹には条帛が懸かり、肩から懸かった天衣が腰の前に三重に垂れ、それが両腕から左右の足の外側へと垂れ下がっている。腰から下に着けておられる裳は、日光・月光菩薩の裳よりさらに薄手で、両足の輪郭がはっきりと判るほどであり、裳の裾は左右に緩やかに拡がっている。両手は左手を掌を前に向けて肩の上にまで掲げ、右手も同様に掌を見せてまっすぐ垂れ下がっており、それぞれに印を結んでおられる。蓮華座も框座(かまちざ)に反花(かえりばな)を、そして華盤と蓮弁というふうに三重になっており、豪華な造りである。観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の補処の菩薩として祀られることが多いが、この聖観音菩薩は独立した仏像として造られたもののようである。この仏像は亀井勝一郎によると、天武天皇の時代に百済王より献上せられたものだとのことであるが、百済で造られたとしてももしくは日本で鋳造されたにしても、白鳳時代の仏像の極めて完成度が高いことに感銘を受ける。そ