秋 篠 寺

 今日は奈良の北西部の、秋篠町・法華寺町・左保路から東大寺を廻る順路での古寺巡礼である。最初に秋篠寺に行く。当寺は奈良時代末期の宝亀七年(七七六年)に、光仁天皇の勅願により平城京大極殿の西北の高台に造営が始められ、次代桓武天皇の時代に平安京遷都と共に完成された。その意味で平城京時代最後のお寺である。開基は善珠大徳僧正で、本尊は薬師如来である。もともとは法相宗のお寺として創建されたが、その後真言宗・浄土宗を経て昭和二十四年に単立の宗教法人となっているお寺である。光仁天皇までの皇統は天武天皇以来全て天武系であり、天武・持統・文武・元明(文武の母)・元正(元明の娘)・聖武・孝謙(阿倍皇女)・淳仁(天武の孫)・称徳(孝謙の重祚)と続いている。しかし孝謙上皇が祈祷によりその病を快癒させた僧道鏡を寵愛し、淳仁天皇を廃位させ淡路島に配流させ、ついには淳仁天皇が没したこと。また道鏡を太政大臣禅師そして法王とし、ついには道鏡を皇位につけようとしたこともあり、皇位は天智系の六一歳の白壁王のもとに転がり込んできたのであった。しかしながらこの光仁天皇の周りにも悲劇は起きる。それは聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた井上皇后とその皇子・他戸(おさべ)皇太子が天皇呪詛の嫌疑で廃され、二人ともに獄死してしまったことである。これは百済からの渡来人の子孫である高野新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)を見込んだ、藤原百川の謀略によるものと言われている。歳いった天皇が何の権力的な背景もないままに皇位に登り、そのために長年連れ添うた皇后とその息子を、政略のために失ってしまったのである。無力感に苛まれ、そして糟糠の妻とその子を死に至らしめた罪悪感の中で、光仁天皇はこの秋篠寺の建立を思い立ったのであろう。そして開基は僧正善殊大徳である。この善殊もまた奇異な伝説の中に生まれている。それは善殊は文武帝の夫人であった皇太后藤原宮子と僧玄肪の密通の子であるという言い伝えである。皇太后宮子は首(おびと)皇太子で後の聖武天皇の母后であるが、あまりに若くして寡婦となったために鬱病に罹った。その彼女が玄肪を見て生まれ変わったように生き生きとなった。それから皇太后宮子と僧玄肪の隠された秘密の恋が始まったという。玄肪は第八回遣唐使の一員として、吉備真備や阿倍仲麻呂らとに唐に渡り苦難の末帰国して、吉備真備とともに聖武天皇に仕えている。そしてまた海龍王寺の開基でもある。こうしてみると、この佐保路・佐紀路にある秋篠寺、法華寺、海龍王寺、般若寺そうしてまた東大寺、唐招提寺と現在古寺巡礼において人気のあるお寺は、すべて聖武天皇、光明皇后のお二人を中心軸として花開いた天平文化のもとに、草創されていることがよく判る。しかしこの表向きの華やかさの影には、権力欲・肉親との愛憎・暗く秘められた煩悩などが渦巻いていたのであろう。

東門より入山し香水閣を左手に折れて、金堂趾が苔に覆われているのを見ながら本堂(元講堂)に着く。

秋篠寺 金堂跡



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