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東 大 寺 大 仏 殿 付 近

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法華堂から下って、鐘楼の辺りの茶店でにゅうめんを頂く。それから大仏殿前まで下る。年表を繰って調べてみると、聖武天皇と光明皇后は天平十三年に国分寺、国分尼寺建立の詔を発している。そして聖武天皇はその二年後に、紫香楽宮(しがらききゅう)において廬舎那仏大像の創建を発願している。 その翌年聖武天皇は難波宮に都を遷都している。そして天平十七年(七四五年)大仏創建にあたる僧行基を、大僧正としている。また同じく同年に都を平城京に戻している。この短期間の度重なる遷都は、聖武天皇と光明皇后の仲違いによるものとの説も、何かの本で読んだ記憶がある。聖武天皇・光明皇后の夫婦は、どちらかと言うと光明皇后のほうが強かったのではないかと思われる。ために聖武天皇は一時期ノイローゼ気味であったのであろう。天平勝宝四年に大仏開眼供養が、一万人の僧を集めて盛大に催される。それから源平の争いの時まで、この東大寺は創建当時のままの壮大な伽藍を擁して、繁栄を続けたのであろう。しかし平安末期に平清盛の専横に反抗して、源三位頼政を始め、伊豆の源頼朝、木曽の源義仲などの源氏の一党が、以仁王の令旨を奉じて一斉に挙兵する。そしてこの時期になると東大寺は興福寺の奈良法師などの僧兵を抱える政治勢力でもあった。そしてこれら奈良法師は、清盛の専横に対抗して公然の狼藉を為していたという。これに対して清盛は平頭中将重衡を大将軍として、四万余騎で南都を攻撃する。南都側はこれを迎えて、奈良坂と般若寺の二ヶ所に陣取って抗戦したが、これらもあえなく陥落されてしまった。そして般若寺の門に立った重衡は「火を出せ」と号令し、この火が奈良坂を下って南都の町に襲いかかり、壮麗さを誇った東大寺の諸伽藍は金銅十六丈の廬舎那仏とともに焼け落ちてしまったのである。 東大寺 大仏殿  

二 月 堂

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  吉村貞司は記している。       「光明皇后の男勝りの力量は、不吉な野望に向かった。藤原一族      の繁栄という野望である」     「則天武后は敗退したために、罪状のすべてを暴かれねばならな      かった。しかし、光明皇后は成功した。彼女によって、藤原氏      の繁栄は明治維新の直前まで続く。ために彼女は帰って褒め称      えられて、皇后の中でも第一位の女性と仰がれた」   光明皇后には千人沐浴における、最後の一人の癩病者への異様なまでの献身の逸話がある。美貌の皇后がその美しい唇を癩者の肌に触れ、膿を吸いつつ全身に及んだところ、その癩者は阿シュク如来になったという。また北天竺の乾陀羅国の見生王派遣の問答師による、光明皇后をモデルとした十一面観音像三体の話もある。この問答師の申し出を皇后は最初断ったが、母公橘夫人のために興福寺の西金堂に安置する仏像を造ることを条件に、自らを写すことを許したという。そうして光明皇后はから風呂の中で薄絹を身に纏っただけの肌も露な自らの姿を、問答師に写させたという。こうした逸話から読みとることの出来るのは、光明皇后が篤い信仰心と共に、女としての魅力に富んだ奔放な性格の持ち主だったのではないかということである。          ふじはらの おおききさきを うつしみに               あひみるごとく あかきくちびる        ししむらは ほねもあらはに とろろぎて               ながるるうみを すいにけらしも        からふろの ゆげたちまよふ ゆかのうへに               うみにあきたる あかきくちびる        からふろの ゆげのおぼろに ししむらを               ひとにすはせし ほとけあやしも                         会津 八一  「鹿鳴集」    藤原家の氏社は春日神社であり、また氏寺は興福寺である。そして藤原家の祖先は中臣鎌足であるが、実際の藤原氏の繁栄を築き上げた藤原不比等の母・賀茂姫は京都の上賀茂・下賀茂神社に祀られる賀茂氏であったのだろう。それ故に葵祭は京都の最大の祭となり、上賀茂神社の斎院は伊勢神宮の斎宮と同じく高い位置づけとなったに違いない。天

二 月 堂

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  吉村貞司の「愛と苦悩の古仏」によれば、光明皇后は「雄大なる分裂」であると述べられている。仏教への篤く深い信仰心と、その裏腹の女としての血の熱きたぎりによる煩悩。聖武天皇と共に目指した総国分寺・総国分尼寺建立による地上天国の樹立、とその裏側における天皇家をないがしろにしての藤原家の支配。聖武天皇と光明皇后は実は甥と叔母の関係にある。鎌足の子、藤原不比等はその妻賀茂姫との間に、宮子を生む。この宮子は天武天皇と持統天皇の皇子・文武天皇に入内して、聖武天皇を生んだ。文武の没後、皇太后となった宮子は僧・玄肪との密通の噂が喧伝された方であった。したがって藤原不比等にとって、聖武天皇は孫に当たる。一方光明皇后の生まれは次の通りである。持統・元明両女帝の後を受け継いだ文武帝の乳母として、三野王の夫人であった県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)三千代が、宮廷に入る。そして三千代は両女帝の信任を得て、その発言権も絶大であったという。文武帝の妃選びにも、三千代の発言力が発揮されたようである。そうして文武帝の妃として藤原不比等の娘・宮子を選んだ後に、橘三千代は晩年の不比等と再婚している。そうして生まれたのが藤原光明子である。この光明子と聖武天皇が結ばれたわけで、聖武天皇その人は藤原不比等の一族の一員として、藤原家の中から天皇の地位に着いたと言っても良い。こうしてみると、光明皇后はまさに藤原家を代弁する存在であり、また天平時代の宮廷にあって、稀代の女流辣腕家であった橘三千代の血を引く権力志向の強い女性であったのであろう。吉村貞司は光明皇后は則天武后を慕ったという。それは次ぎに記述することがらからもよく判る。光明子は聖武天皇に入内後、基(もとい)皇子を生む。まずこの基皇子をすぐに皇太子としている。しかしこの基皇子は一歳で亡くなる。そうすると天皇家の重鎮であり、藤原家に対抗する長屋王を廃する動きを行う。長屋王は天武天皇の皇子であった壬申の乱でも功のあった高市(たけち)皇子の子であった。この長屋王を天皇家呪縛の罪に陥れ、自殺させてしまう。その半年後に、光明子は天皇家以外からの初めての皇后に即位する。そうしてまた中国では則天武后のみが行ったという一年間に二度の改元を実施している。天平二十一年四月に聖武天皇が上皇となり、光明子との皇女の孝謙天皇が即位して天平感宝元年とし、その七月にまた改元して天平勝

二 月 堂

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  奈良坂を下って一条通りに出て、そこを東行すると突き当たりが東大寺の転害門である。転害門を左手に曲がってまた右折し、東大寺境内の外周を走って、車はそのまま若草山の麓を二月堂前まで登って行く。この二月堂は東大寺諸堂の中では最も高い場所にある懸崖造りの建物で、お水取りの行事で有名である。この二月堂は良弁(ろうべん)の高弟であった実忠が大仏開眼の年(七五二年)に創建したものである。本尊は摂津難波津から秘仏十一面観音を勧請している。実忠は十一面観音に帰依するところ深く、十一面悔過(けか)法を作ってこれを修した。この十一面悔過の行事の一部が、お水取りである。この実忠はまた、京都南部の田辺にある普賢寺の初代和尚でもあった。普賢寺は実忠の師・良弁が勅命を受けて創建したお寺で、正式名称は普賢教法寺と言い、元来は普賢菩薩が本尊であったはずであるが、今残っているのは実忠の拝した天平仏の十一面観音だけである。 またこの実忠に関しては「元享釈書」という書物に、彼と美貌の皇后との次のような秘事が記されている。光明皇后は東大寺の講堂を参拝したときに、地蔵菩薩の美しさに心を奪われた。そうして皇后は、地蔵菩薩さながらの美男子を与え給えと祈ったと言う。そうして女官に命じて美貌の僧を探せしめたところ、女官が復命したのは実忠の名であった。皇后は実忠を召した。そしてその美貌に眩んで、実忠の裸を見たいと望んだ。そこで実忠に沐浴を勧め、皇后は彼の裸を盗み見た。美僧の裸身は、この世のものとも思えぬ程麗しかった。そうして皇后はうたた寝の夢の中で、美僧を犯してしまう。夢から覚めると、実忠は皇后の枕元に坐り、十一面観音を頂き捧げてこれを礼拝していた。その厳粛さに、皇后も我に返って実忠の前に合掌して懺悔したという。 二月堂

般 若 寺

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  不退寺よりむかし広島の友人達と訪れた興福院に行こうと思ったが、今は事前予約が必要になっているとのことで、断念して般若寺に向かう。般若寺は奈良坂の中腹にあるお寺である。奈良坂とは奈良山を越える坂のことであるが、平城京の北辺を支えるなだらかな山並みを奈良山という。奈良という地名は奈良山から来ており、平城京以前からあった名前で、平らかな山(ナラされた山)がその語源のようである。また他の説として「日本書紀」に崇神天皇の時に、武埴安彦を攻めた政府軍が踏みならしたことから「なら」と呼ばれるようになったとも言う。この奈良山は佐保山と佐紀丘陵の二つから成っている。般若寺を東の端とし、法華寺の北方あたりまでの山を佐保山といい、法華寺の北から秋篠寺のほうの丘陵を佐紀丘陵と呼ぶそうである。また佐保路とは東大寺の転害門から法華寺まで東西にまっすぐ延びる一条通りのことであり、そこから秋篠寺までの道は佐紀路と呼ばれている。そして佐保の地にはここを本願とする部族がおり、その長を佐保比古と言った。垂仁天皇にその妹佐保比売が皇后として入っていたが、佐保比古は乱を起こして攻め殺されたという。またこの佐保川の畔には万葉歌人の住まいも多く、彼らは色々な佐保川の春を詠っている。そしてこの佐保川は、彼らの恋の通い路でもあった。しかし一方で佐保山は佐保川のロマンスとは打って変わって哀しみの山でもあった。元明天皇の陵は奈良坂を登った上にあり、聖武天皇陵と仁正皇后(光明皇后)の陵は奈良坂をおりた山裾にある。花と咲いた天平文化の中心人物でもあった聖武天皇・光明皇后の陵がこうして二つ並んで佐保山から昔の平城京の後を眺めていると思うと、一入の感慨がある。またこの佐保山は、藤原不比等の火葬の地でもあり、大伴家持の妻の墳墓の地でもある。京都における鳥辺野と同じく、佐保山もまた墳墓の土地であったのである。        昔こそ 外(よそ)にも見しが 吾妹子が            奥津城と思(も)へば 愛(は)しき佐保山                        大伴家持 ---- 万葉集          奈良坂の途中には鎌倉時代に造られた「北山十八間戸」という昔の病院がある。僧忍性が当時のハンセン氏病の患者を無料で収容して治療したところで、細長い白壁の建物である。般若寺に着く。当寺は飛鳥時代に舒明

不 退 寺

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不退寺は平城天皇の孫であった在原業平の建立になるお寺である。この地は平城天皇が嵯峨天皇に譲位した後に茅葺きの御殿を造営し、「萱の御所」と呼ばれたこともあるところである。この平城天皇の即位に至るまでには、また様々な事件が起きている。まず道鏡を寵愛した称徳天皇(孝謙天皇)のあと、天智系の白壁王が光仁天皇として六一歳で即位。そして高野新笠を母とする山部親王を擁する藤原百川の陰謀で、井上皇后・他戸(おさべ)皇太子が廃されて獄死。その山部皇太子が即位して桓武天皇となったが、この折りにも造長岡京使・藤原種継の暗殺に絡んで、実子安殿(あて)親王を後継とするために早良皇太弟が淡路島に流される前に、乙訓(おとくに)で憤死している。こうして安殿皇太子は桓武没後即位して、平城天皇となったが、その直後にも異母弟伊予親王の謀反の疑いが発覚、伊予親王は母の吉子と飛鳥の川原寺に幽閉され自殺している。平城天皇は自らの即位の裏側で死に至った早良親王と伊予親王の怨霊から逃れるため皇太弟であった嵯峨天皇に譲位したわけである。しかし平城上皇は重祚を狙って、平城京遷都を命令。二所朝廷が対立。そして平城上皇の寵愛する藤原仲成・薬子の兄妹の官位が剥奪されたのに激怒した平城上皇は、東国に挙兵しようとするが失敗。上皇は出家し、薬子は自殺する。これが藤原薬子の乱である。以上が平城天皇の即位に至るまでの歴史と、平城天皇自らの略歴であるが、最後は敗者として出家した平城天皇の皇子・阿保親王の第五子であり臣籍降下した在原業平は、嵯峨天皇の子孫である天皇家に対してかなり屈折した思いを抱いていたであろうことが疑いのないところであろう。それが清和天皇の女御となる予定の藤原良房の姪・高子との恋愛事件である。清和天皇は嵯峨天皇の曽孫であり、皇統は嵯峨天皇、その皇太子・仁明天皇、その皇太子・文徳天皇、そして文徳の皇太子・清和天皇の順である。こうしてみると業平の高子への懸想と恋愛は、敗者側からの反逆であり挑戦であったのだろう。しかも高子入内の時の清和天皇の年齢は十七歳で、高子は八歳年上の二十五歳である。年齢的には業平との間の方が自然であるようにも思える。この事件は「源氏物語」を書いた紫式部に、光源氏とその異母兄・朱雀院のお后候補であった朧月夜との入内前の恋愛事件として描かれている。この事件のために朧月夜は后候補としてではなく内侍として入内

不 退 寺

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  海龍王寺より、不退寺に向かう。地図を見てみると秋篠寺の東側には秋篠川が南下しており、不退寺の南側を佐保川が蛇行しており、この二つの川に挟まれたその中間に平城京の大極殿趾がある。秋篠川は秋篠寺、西大寺、尼ヶ辻の唐招提寺、薬師寺の東側を流れて、大和郡山市の東北で佐保川と合流している。一方佐保川は春日山の裏手より発し、若草山を迂回し東大寺と般若寺の間を流れ、不退寺、海龍王寺、法華寺と来て新大宮で南下し秋篠川と合流している。秋篠川と合流した佐保川は高瀬川などと合流しつつ、額田部町あたりで大和川(初瀬川)と合流することとなる。大和川は宇陀郡の室生の奥より、室生寺、榛原、吉隠(よなばり)、長谷寺、と西行し、そこから西北に天理を抜けて佐保川と合流し、明日香から北上する飛鳥川や北より南下してきた富雄川、そして生駒から南下して龍田神社の側を流れてきた龍田川とも合流して、王寺を抜け金剛生駒山地の南端の谷間を通って、大阪平野へと出る。その藤井寺は天皇陵の集中しているところであり、応神天皇陵・安閑天皇陵・清寧天皇陵・日本武尊陵など十を超える前方後円墳が見られるところである。大和川はこのあと松原を通過して住吉区と堺市の間で大阪湾へと流れ込んでいる。大和川は今は住吉大社よりかなり南で海に流れ込んでいるが、その蛇行しているところから見れば、昔住吉大社が海に面していた頃には大和川は住吉大社の側で、難波の海に注いでいたのかもしれない。 こうしてみると平城京は秋篠川と佐保川の流れに沿った都であり、飛鳥京・藤原京は飛鳥川によってなる都であった。そうしてこの二つの川の合流するところが、聖徳太子の斑鳩宮であるということを考えると、上代においては川が如何に都にとって重要であったかということの証左であろう。また平城京そのものが春を紡ぎ出す女神である佐保姫に縁のある佐保川の流れに位置し、その佐保川が初瀬川と合わさり大和川となり、斑鳩宮の近くを流れる秋の山野を彩る女神の龍田姫に縁のある龍田川と合流して難波の海へと流れ出るというのも、いかにも奥床しい。春の花・秋の紅葉という自然の美を讃えその力を認めていた古代人にとって、川の流れを佐保姫・龍田姫というように人称化し、春秋の女神を信じることは極めて当たり前のことであったのだろうが、そこには日本古来の自然と睦み合いながら人生を送って行くという大きな智慧が底流にある