般 若 寺

 不退寺よりむかし広島の友人達と訪れた興福院に行こうと思ったが、今は事前予約が必要になっているとのことで、断念して般若寺に向かう。般若寺は奈良坂の中腹にあるお寺である。奈良坂とは奈良山を越える坂のことであるが、平城京の北辺を支えるなだらかな山並みを奈良山という。奈良という地名は奈良山から来ており、平城京以前からあった名前で、平らかな山(ナラされた山)がその語源のようである。また他の説として「日本書紀」に崇神天皇の時に、武埴安彦を攻めた政府軍が踏みならしたことから「なら」と呼ばれるようになったとも言う。この奈良山は佐保山と佐紀丘陵の二つから成っている。般若寺を東の端とし、法華寺の北方あたりまでの山を佐保山といい、法華寺の北から秋篠寺のほうの丘陵を佐紀丘陵と呼ぶそうである。また佐保路とは東大寺の転害門から法華寺まで東西にまっすぐ延びる一条通りのことであり、そこから秋篠寺までの道は佐紀路と呼ばれている。そして佐保の地にはここを本願とする部族がおり、その長を佐保比古と言った。垂仁天皇にその妹佐保比売が皇后として入っていたが、佐保比古は乱を起こして攻め殺されたという。またこの佐保川の畔には万葉歌人の住まいも多く、彼らは色々な佐保川の春を詠っている。そしてこの佐保川は、彼らの恋の通い路でもあった。しかし一方で佐保山は佐保川のロマンスとは打って変わって哀しみの山でもあった。元明天皇の陵は奈良坂を登った上にあり、聖武天皇陵と仁正皇后(光明皇后)の陵は奈良坂をおりた山裾にある。花と咲いた天平文化の中心人物でもあった聖武天皇・光明皇后の陵がこうして二つ並んで佐保山から昔の平城京の後を眺めていると思うと、一入の感慨がある。またこの佐保山は、藤原不比等の火葬の地でもあり、大伴家持の妻の墳墓の地でもある。京都における鳥辺野と同じく、佐保山もまた墳墓の土地であったのである。

      昔こそ 外(よそ)にも見しが 吾妹子が

           奥津城と思(も)へば 愛(は)しき佐保山

                      大伴家持 ---- 万葉集        

奈良坂の途中には鎌倉時代に造られた「北山十八間戸」という昔の病院がある。僧忍性が当時のハンセン氏病の患者を無料で収容して治療したところで、細長い白壁の建物である。般若寺に着く。当寺は飛鳥時代に舒明天皇の勅願で高句麗の僧・慧灌法師により開創されたが、天平十八年(七四六年)に至り聖武天皇が、平城京の繁栄と平和を祈願して大般若経を奉納すると共に卒塔婆(十三重石塔)を建立、平城京の鬼門鎮護の定額寺に定められたという。平安時代には学僧千余人を集めるほどに栄え、学問寺として名声をはせた。しかし源平の争乱に際しては、治承四年(一一八〇年)平重衡の南都焼き討ちに遭い伽藍は全て灰燼に帰した。その後鎌倉時代に復興され、その折りに十三重石塔も再建されている。宗派は真言律宗で、山号は法性山である。

境内に入ると、まず西国三十三ヶ所十一面観音石像が目に付く。庭園を廻って十三重石塔を見て、本堂に行く。本堂前には大きな石灯籠が置かれたあった。この寺はコスモス寺という愛称も持っており、夏と秋の二回に分けてコスモスが咲き乱れるそうである。

    ご詠歌  み仏の めぐみも深き 般若台

              ももの願いを かなへ給はむ

般若寺


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