二 月 堂
吉村貞司は記している。
「光明皇后の男勝りの力量は、不吉な野望に向かった。藤原一族
の繁栄という野望である」
「則天武后は敗退したために、罪状のすべてを暴かれねばならな
かった。しかし、光明皇后は成功した。彼女によって、藤原氏
の繁栄は明治維新の直前まで続く。ために彼女は帰って褒め称
えられて、皇后の中でも第一位の女性と仰がれた」
光明皇后には千人沐浴における、最後の一人の癩病者への異様なまでの献身の逸話がある。美貌の皇后がその美しい唇を癩者の肌に触れ、膿を吸いつつ全身に及んだところ、その癩者は阿シュク如来になったという。また北天竺の乾陀羅国の見生王派遣の問答師による、光明皇后をモデルとした十一面観音像三体の話もある。この問答師の申し出を皇后は最初断ったが、母公橘夫人のために興福寺の西金堂に安置する仏像を造ることを条件に、自らを写すことを許したという。そうして光明皇后はから風呂の中で薄絹を身に纏っただけの肌も露な自らの姿を、問答師に写させたという。こうした逸話から読みとることの出来るのは、光明皇后が篤い信仰心と共に、女としての魅力に富んだ奔放な性格の持ち主だったのではないかということである。
ふじはらの おおききさきを うつしみに
あひみるごとく あかきくちびる
ししむらは ほねもあらはに とろろぎて
ながるるうみを すいにけらしも
からふろの ゆげたちまよふ ゆかのうへに
うみにあきたる あかきくちびる
からふろの ゆげのおぼろに ししむらを
ひとにすはせし ほとけあやしも
会津 八一 「鹿鳴集」
藤原家の氏社は春日神社であり、また氏寺は興福寺である。そして藤原家の祖先は中臣鎌足であるが、実際の藤原氏の繁栄を築き上げた藤原不比等の母・賀茂姫は京都の上賀茂・下賀茂神社に祀られる賀茂氏であったのだろう。それ故に葵祭は京都の最大の祭となり、上賀茂神社の斎院は伊勢神宮の斎宮と同じく高い位置づけとなったに違いない。天平時代から平安時代にかけてまさに天下の実権は、天皇家を表に立て支えながらも、実際には藤原家がしっかりと握っていたのである。
二月堂の欄干に登って、大仏殿と奈良の町並みを遥かに見下ろす。この二月堂の御堂の中に祀られてある秘仏の十一面観音のお姿は、どのようなものなのであろうか。それは夢に姦淫した光明皇后の枕元に、美僧・実忠が捧げ奉った十一面観音を彷彿とさせるものなのであろうか。
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