二 月 堂

 吉村貞司の「愛と苦悩の古仏」によれば、光明皇后は「雄大なる分裂」であると述べられている。仏教への篤く深い信仰心と、その裏腹の女としての血の熱きたぎりによる煩悩。聖武天皇と共に目指した総国分寺・総国分尼寺建立による地上天国の樹立、とその裏側における天皇家をないがしろにしての藤原家の支配。聖武天皇と光明皇后は実は甥と叔母の関係にある。鎌足の子、藤原不比等はその妻賀茂姫との間に、宮子を生む。この宮子は天武天皇と持統天皇の皇子・文武天皇に入内して、聖武天皇を生んだ。文武の没後、皇太后となった宮子は僧・玄肪との密通の噂が喧伝された方であった。したがって藤原不比等にとって、聖武天皇は孫に当たる。一方光明皇后の生まれは次の通りである。持統・元明両女帝の後を受け継いだ文武帝の乳母として、三野王の夫人であった県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)三千代が、宮廷に入る。そして三千代は両女帝の信任を得て、その発言権も絶大であったという。文武帝の妃選びにも、三千代の発言力が発揮されたようである。そうして文武帝の妃として藤原不比等の娘・宮子を選んだ後に、橘三千代は晩年の不比等と再婚している。そうして生まれたのが藤原光明子である。この光明子と聖武天皇が結ばれたわけで、聖武天皇その人は藤原不比等の一族の一員として、藤原家の中から天皇の地位に着いたと言っても良い。こうしてみると、光明皇后はまさに藤原家を代弁する存在であり、また天平時代の宮廷にあって、稀代の女流辣腕家であった橘三千代の血を引く権力志向の強い女性であったのであろう。吉村貞司は光明皇后は則天武后を慕ったという。それは次ぎに記述することがらからもよく判る。光明子は聖武天皇に入内後、基(もとい)皇子を生む。まずこの基皇子をすぐに皇太子としている。しかしこの基皇子は一歳で亡くなる。そうすると天皇家の重鎮であり、藤原家に対抗する長屋王を廃する動きを行う。長屋王は天武天皇の皇子であった壬申の乱でも功のあった高市(たけち)皇子の子であった。この長屋王を天皇家呪縛の罪に陥れ、自殺させてしまう。その半年後に、光明子は天皇家以外からの初めての皇后に即位する。そうしてまた中国では則天武后のみが行ったという一年間に二度の改元を実施している。天平二十一年四月に聖武天皇が上皇となり、光明子との皇女の孝謙天皇が即位して天平感宝元年とし、その七月にまた改元して天平勝宝元年としているのである。そして聖武上皇の病がちなのに乗じて、自らが孝謙天皇の生母として政治の実権を握ってしまう。

二月堂欄干より


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