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彦 根 城

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  玄宮園より歩いて表門に向かう。その手前にある厩と佐和口多聞櫓を用いて、展示館としている。現在天守閣は修理中なので、そのかわりにここが展示館として使われているようである。その展示館を見た後、表門橋をわたって城内に入る。 彦根城は、徳川四天王の一人である井伊直政が、関ヶ原の戦いの功績によりその報償として、石田三成の居城佐和山城を与えられたことに端を発する。井伊家はもともと静岡県の井伊谷に在していたが、その後上野国高崎城(箕輪城)に移封された。従ってこの彦根は井伊家にとって二度目の移封になる。井伊家の当主直政が移封後一年で、戦いの傷がもとで没したので、その子直孝が一六〇三年に築城に着手し、約二十年を経て完成されたお城である。天守閣は大津城から、また天平櫓は長浜城から運び込まれたという。 お城のパンフレットによれば、井伊家の祖先は藤原氏とのことで、平安中期の一条天皇の時に、遠江守に任ぜられた藤原共資の子共保に始まっているとのことである。井伊直政は遠州井伊谷で十五歳の時に徳川家康より二千石を賜り、十六歳のときの初陣の功で一万三千石に、二十二歳の武田征伐で四万石。三十歳で上野国箕輪城主十二万石、そして佐和山城主となった四十一歳の時は十八万石を授かっていた。その後二代藩主直孝が大坂冬・夏の陣で武功をたて、三十五万石彦根藩主となったのである。 彦根城 表御殿庭園

玄 宮 園

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  彦根城の外濠は琵琶湖と繋がっており、車はまずその外濠に出る。そこからいろは松のあるところを通って佐和口より入り、内濠沿いに玄宮園に向かう。このあたりは城下町の風情が充分に残っており、興趣あり。 玄宮園は井伊家四代城主直興が一六七七年に槻(つき)御殿の一部として着手したもので、完成は一六七九年である。これは四代将軍徳川家綱の時代で、同時代人としては少し前に小堀遠州、楽三代のんこう、柿右衛門、石川丈山、片桐石州、狩野探幽、千宗旦、隠元、野々村仁清がいる。また井原西鶴や松尾芭蕉が活躍していた時代といえる。同時期には奈良慈光院の茶室、丸亀城、高松城、松山城、閑谷学校が出来上がっている。この玄宮園は殆ど同時期に造園された岡山の後楽園と同じく、池泉回遊式の大名庭園として、城郭より内濠を隔てた場所にあり、中国湖南省の瀟湘(しょうしょう)八景に模して作庭され、唐の玄宗皇帝の離宮の名を取ったということである。池には神仙島が作られ、鳳翔台の建物が池に面している。その対岸よりの眺めは、池に面した鳳翔台その向こうに天守閣と城山が望まれ、まさに絵となる景観である。しかし池とこの建物が中心の庭園であり、岡山の後楽園のごとき多様さはない。またその奥の楽々園(槻御殿)は、現在は料亭として使われており、有名な枯れ池を玄宮園側より覗いたのみに終わった。 玄宮園

龍 潭 寺

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  方丈には石田三成の生涯についての説明の額が並んでいる。秀吉が長浜城主の折りに鷹狩りで佐吉(三成の幼名)に出会い、その後官僚派の近江閥として出世するが、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、同十七日には佐和山城も落城し、父兄妻など一族郎党が自決。伊吹山に逃れていた三成も捕らえられて、大阪・堺を引き回しの上、今日の六条河原で切腹。大徳寺三玄院に葬られている。関ヶ原の戦いは三成が敦賀城主大谷吉継と謀り戦火の火蓋を切ったが、小早川秀秋が寝返って大谷軍を攻めたことから徳川の勝利となったもので、こうして見ると歴史は本当に一つ一つに事件の積み重ねで、結果は大きく変わって行くものなのだということを感じる。       散り残る 紅葉は殊に いとほしき             秋の名残りは こればかりとぞ                      「残紅葉」 石田三成の遺墨 書 院東庭は鶴亀蓬莱の池泉鑑賞・回遊・借景庭園であり、桃山時代の作庭を偲ぶことが出来る。小さな池の左手に鶴亀の島があり、右手の池のなかに飛び石がある。その右奥に石橋があり風情がある。池の奥は山の斜面を利用し、刈り込みと共に多くの石を配置しているのが特色である。斜面の東隅は石垣としている。井伊直弼がこの池泉庭園を詠じて、        世間に すむとにごるの あともなく              この池水の いさぎよきかな   と詠んでいる。方丈の襖絵は芭蕉門下の十哲の一人、森川許六の筆になるものである。またこのお寺にある有名な楊柳観音像は、毎月十八日にのみ開扉することとなっており、残念ながら見ることは出来なかった。 龍潭寺にて達磨のお守りを買い、タクシーを呼ぶ。隣には石田三成の家老であった島左近の邸宅趾をお寺とした清涼寺があるも、これは訪れるのを止めて、玄宮園へと向かう。 龍潭寺 書院東庭

龍 潭 寺

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  山道を降り、龍潭寺へと下る。正門をまっすぐに入ると、県の青少年会館があり、その右手奥にお寺の入り口がある。東寺の正式名称は弘徳山龍潭護国禅寺と言い、臨済宗妙心自派のお寺であり、パンフレットには「達磨の寺」「庭の寺」との名称も記されている。井伊大老の生母の墓があると共に、石田三成の居城・佐和山城の麓にあることから、石田三成縁の地とも記されている。開山は無相大師である。堂内に書かれている説明文によると、釈迦の正法は禅宗の始祖達磨大師に受け継がれ、それが宗祖臨済禅師に受け継がれたとしており、それが日本に渡来して臨済宗妙心寺派のこの龍潭寺の開山無相大師に脈々と流れているというのである。開山無相大師の御遺戒は「請う、その本(もと)を務めよ」である。当寺そのものはその昔天平五年(七三四年)に行基により、静岡県引佐郡井伊谷に開基されたという。その後一〇九三年に井伊家の始祖井伊共保公の菩提寺となり、一三三七年花山天皇の勅願で、開山無相大師が創建。その後後醍醐天皇の第三皇子宗良親王が中興し、かの中国濫陽の龍潭にあやかって寺号とした。一六〇一年に井伊直政公が高崎から当地に移封された折りに、開山昊天禅師によりこの龍潭寺も移建されたという。一方静岡の龍潭寺も、そのまま残っているとも言う。 方丈の南庭は、石庭補陀落(ふだらく)の庭と呼ばれている。手前の白沙の海に三つの石組みの島があり、中心は補陀落山となっており、その右手に船石がある。右の石組みには、灌木が添えられている。白沙の奥は大陸となっており、右手の奥の石組みの側の小さな樹木がひっそりと立っており、これもまた愛らしい。正面奥と右手は生け垣で区切られており、その向こう側には樹木が植えられている。正面の生け垣のところに柱があるのは、何か理由があるのであろう。左の生け垣の奥は紅葉が植えられており、左側面は高床の渡り廊下となっている。右側面の生け垣の奥には、大きな古木がまるで昇竜のごとき三本の大きな枝を広げている。二本の枝は庭に懸かるかのごとく左に傾斜しているが、残りの一本の枝は左方へ登っている。当庭園は園頭教学(造園学)の淵源となった龍潭寺衆寮(禅宗大学寮)学僧の造園学実習庭園として、開山の昊天禅師により作庭されたものである。境内には庭園の始祖夢窓国師及び小堀遠州の供養塔、また庭園史上の先賢を奉祀する庭聖殿もある。ふだらくの庭は仏殿・経堂

大 洞 弁 財 天

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  彦根駅について、タクシーで龍潭寺にむかう。運転手さんの話ではその近くにある大洞弁財天も一見に値するとの由、龍潭寺前に着きまずその日本三大弁財天の一つであるという大洞弁財天への山道を登って行く。 当弁財天は、石田三成の佐和山城趾のある山の北端に位置している。院号は長寿院と言い、江戸幕府の日光普請奉行でもあった四代藩主井伊直興が創建したお寺である。日光の大工をたくさん連れてきて、日光の東照宮と同じく権現造りの豪華さを持つ建物として造り上げられたので、通称彦根日光とも呼ばれているそうだ。楼門の左右には日月の二神像を配し、彦根城の鬼門を厄払いすると共に、軍事的役割を持っていたとされる。竣工は一六九六年犬公方綱吉の元禄時代であり、閑谷学校の聖廟と同じ頃の建物である。同時代人としては、井原西鶴、松尾芭蕉、円空、楽一入、菱川師宣、徳川光圀、尾形光琳などがあげられる。当弁財天は近江七福神の一つでもあり、建立のときに西国・秩父・阪東の二百八十一カ所の砂をすべて集めて埋めてあるとのことである。従ってここを参拝するのみで上記三カ所の巡礼をしたことになるようであり、商売繁盛・学業成就の御利益があるそうである。 堂内の弁財天は左手に玉、右手に剣を持っており、風貌は家康公を模したような感じがあり、また左右には龍の脇士があるのも珍しい。欄間には権現造りの様々な彫刻があり、まさに小東照宮である。そもそも天部とは、仏教がそれ以前の既成宗教であるバラモン教などからそれらの神々を同化したものであり、明王とともに天部もそれらの民間信仰の神々を、仏法も守る善神として転化したものである。天部は梵天・帝釈天それから四天王(増長天・広目天・持国天・毘沙門天)のように邪気を踏みつけながら仏国土の四方を守護する怒りの男神ばかりでなく、豊かな肉体と美しい容姿を持つ女神もおり、それが弁財天と吉祥天である。吉祥天が福徳円満・五穀豊穣の神として信仰されたのに対し、弁財天は水の恵みの神として商売繁盛・学業成就の神として信仰されてきた。これ以外にも伎芸天という女神もいる。 大洞弁財天

安 土 城 趾

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  大阪駅より十時半の新快速米原行きに乗車、京都までは約三十分、それから四十七分の合計一時間十七分で彦根に到着の予定である。近江八幡の駅近くでは、関白豊臣秀次(秀吉の甥)により築城された八幡城の城山が見える。山の麓からはケーブルカーが登っている。近江八幡の街も秀次の十年後の自裁により取り残されたが、その中から逞しい近江商人が育ってきたのであろう。近江八幡の駅を出てやや進むと、前方に山の連なりが見えてくる。その左端の小高い山が安土山で、安土城趾となっている。なだらかな横長の山でここにかの信長が、「平安楽土」の文字の中より「平安」京に対抗するものとして「安」と「土」を取り出して命名した安土城を築き上げたのである。フロイスなどを始めとする宣教師たちが、京を経てこの安土城までやって来た時代もあったのである。電車は安土山の右の裾野を通過して行く。 安土城跡

永 平 寺

  朝十時の雷鳥で大坂を出発。福井へ二時間余りで到着。京福電鉄の福井駅で蕎麦を食べ、永平寺へ向かう。東古市でバスに乗り換える。約三十分で永平寺に到着する。門前の土産物商店街は賑やかである。お寺には通用門より入山する。左右は大きな杉木立の道で、自然の森閑さが伝わってくる。総受所に入ると、このお寺を訪れる人々の多いのに驚かされる。総受所のある吉祥閣は、宿泊所にもなっている。吉祥閣の日本間で、堂宇内はすべて左側通行である等の注意を受ける。 まず東司(便所)より堂宇に入る。東司と浴室は山門を中心に東西にある。山門より北へは中雀門、仏殿、一文字廊、法堂(はっとう)と並んでいる。東司の上には僧堂、その反対側は庫院(くいん)である。まず僧堂より見る。僧堂は座禅をし食事をしかつ眠るところであり、まさに修業道場である。次に中雀門を通って仏殿へ行く。ここは祈祷の場であり、本尊は現在仏の釈迦牟尼仏であり、左手に過去仏の阿弥陀仏、右手に未来仏の弥勒仏の三世如来を祀っている。一文字廊を通って承陽殿へ行く。ここは開山道元禅師の御真廟である。石段の上を履き物無しで歩いてお参りをする。仏僧は毎朝夕、ここにお参りをするそうである。次いで法堂に行く。ここは貫主説法の道場で、朝の勤行や各種法要儀式はここで執り行う。聖観音菩薩が奉祀されており、千名の衆僧を収容することが出来るほどの広さがある。そこより大庫院(台所)、浴室を経て山門へ。唐様総欅造りの重層楼門で、七四九年の改築で堂宇内最古のものという。廊下には合図のための分厚い板が掛けられてあり、毎日打っているためか、真ん中に大きな穴があいている。祠堂殿は先祖供養の御堂である。広島と福井の両亡父のために、瓦志納を行う。経本、念珠、月刊誌を頂く。 永平寺の由来は、次の通りである。京にあった道元は、自らが高名となるに従って、自分の名声が世俗のために使われることを嘆くようになっていたが、そこに鎌倉武士で大檀那の波田野義重公の勧めがあり、越前の国志比庄に移って一二四四年に開創した出家参禅の道場が始まりである。十万坪に境内に大小七十の伽藍が建ち並び、樹齢六八〇年の鬱蒼とした老杉に囲まれた佇まいは、古色蒼然とした霊域を創り上げている。 道元は一二〇〇年に京都に生まれ、八歳で母の他界に逢い、十三歳で比叡山横川に出家。二十四歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について