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書 写 山 圓 教 寺

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  この摩尼殿は崖地に建造された謂れを持つ。書写山に入った上人は四年目に天人が舞い降りてきて、崖地の桜木を拝む姿を見た。それで上人はこの桜木はそんなにありがたいのかと思い、その桜木を切って生木のままに一心に如意輪観音像を刻んだ。こうしてこの如意輪観音が当山の本尊となった。そしてその本尊を安置する場所はこの崖地以外にはなかったのである。現在の建物は昭和八年のものとのことであるが、それよりは古い時代のもののように感じられる。堂々とした建造物であり、殿上に登れば舞台よりの眺めも良い。  摩尼殿でお守りを買って堂を辞し、裏道を通って大講堂、食堂、常行堂の三つのお堂がこの字型に並んでいるところに出る。共に室町時代の建造物であり、特に食堂の蔀戸がおもしろい。食堂の上にある宝物館を見る。 食堂の裏手には、弁慶の鏡井戸というのがある。言い伝えでは当山で弁慶が修行をしたこととなっており、そのときにいたずら描きをされた顔を映したと言われるのが、この井戸である。その池の前を通って奥の院に行く。開山堂には左甚五郎作と言われる力士の像が軒下にあった。茶店でそうめんを食べ、ビールを一本空ける。  書写山をおりて、麓にある美術工芸館を見る。特長のある瓦屋根の建物で、中には東大寺長老の清水公照師の人形、壺、絵画と郷土の伝統工芸品が陳列されていた。 書写山 境内

書 写 山 圓 教 寺

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観音菩薩は人間の悩みが様々なために、三十三の身に姿を変えて救済に当たる、最もなじみ深い菩薩である。西国霊場もその数にちなんで三十三ヶ所ある。花山天皇が書写山に来て性空上人に教えを聞き、その帰り道に那智まで観音を祀る由緒の寺を巡ったのが、西国巡礼の始まりになったという。圓教寺の名は花山天皇の命名であるが、それには輪圓具足の教えの寺という意味がある。輪圓とは丸い圓のことで徳を意味し、具足は方所がないと言う意味である。そこより徳において欠けたるところのない、最も成就した状態を意味し、圓教寺はそこより自己完成の道を教える寺と言うことになる。この西国二十七番札所の御詠歌は次の通りである。        はるばると 登れば書写の 山おろし               松の響きも み法(のり)なるらん   平安中期には紫式部、清少納言、和泉式部と我が国を代表する女流文学が、ほぼ同時期に花開いた類稀な時代である。その中で最も恋愛経験が豊富で、多情な閨秀歌人として奔放な歌を詠んだ和泉式部が、この書写山と縁があるのもおもしろい。 和泉式部は父大江雅到の下僚の橘道貞と二十歳前後で結婚、和泉の守であった夫の任地に赴任するのを好まず京に留まり、その間に冷泉天皇の第三皇子為尊親王の愛を受け入れて、道貞と離婚、父からも勘当される。その親王も若くして他界し、次はその弟の敦道親王からの求愛を受けて共に暮らす。ところがその夫もまた若くして亡くなってしまう。その後和泉式部は藤原道長に請われて、一条天皇の中宮彰子の女房として宮廷に入る。和泉式部は中宮彰子のお供で書写山に登ってくるが、性空上人はこれに会おうとしない。和泉式部は上人に会えない無念さを、        暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき               遥かに照らせ 山の端の月   と詠んだ。上人はこの歌に感動し、次の歌を詠んで一行を呼び返したという。        日は入りて 月まだい出ぬ たそがれに               掲げて照らす 法のともしび    和泉式部の歌にこめられた愛憎の葛藤と、無常観からの救済を待つ気持ちの切実さが、性空上人の胸を打ち、この後上人は一行のそれぞれに教えを教示したという。  まず西国巡礼の道を行く。当山のご本尊の分身を初めに、三

書 写 山 圓 教 寺

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  今日は前々から訪れたいと思っていた姫路に行くこととする。阪急で三宮に出て地下鉄で新神戸に着く。新神戸から新幹線に乗って姫路に向かう。今日はお盆休みの最中なので、まだ乗客は多く三十分あまりは立ちずめである。姫路の駅におりて観光案内を見る。バスで四十分あまりの所に、書写山圓教寺がある。バスに乗り姫路城の大手門前を通って、書写山ロープウェイ駅に着く。ロープウェイで標高三百七十メートルの書写山へと登る。やや薄曇りの日であるため、眺めは今一つである。 当寺は康保三年(九六六年)に性空正人によって開かれている。性空上人は敏達天皇の子孫、橘善根の次男として生まれ、三十六才にして出家し最初は比叡山にて修行をした。その後九州の霧島山、背振山で修行を重ねたが、五十七才の時また新しい修行地を求めて九州を後にした。修行の成果を京都で発揮しようとしていたにかもしれないが、播磨の国まで来たところで、それまで背振山を後にしたときからずっと性空上人につきまとっていた瑞雲が、上人を導くかのように書写山のほうへと流れていった。その山に入っていった上人は、道中奇異な僧侶に出会った。その僧は、この山は書写山と言いここを訪れるものは六根を清めることが出来ると言った。僧は文殊菩薩の化身だったのである。こうして性空上人は当山を開いたのである。当山に最もゆかりのある人物は、花山天皇である。花山天皇は十六才で即位されたが、寵姫を無くした後謀られて十八才で退位、悌髪された。そして性空上人に帰依し、西国三十三観音霊場巡礼の端緒を開かれたのである。 書写山 観音菩薩

恵 林 寺

この寺は乾徳山恵林寺と言い、千三百三十年、鎌倉末期に夢窓国師を開山として創建された。二年後には鎌倉幕府討伐の先鋒となった細川顕氏が当寺に参禅し、顕氏の紹介で足利尊氏も当寺に夢窓国師を訪ねている。この縁がもとで後に尊氏が、後醍醐帝の追福のために国師を招請して嵯峨野に天龍寺を開基したのである。戦国時代になると武田信玄が、永禄七年(一五六四年)美濃・崇福寺より当代随一の傑僧と唱われた快川紹喜(カイセンジョウキ)を招請した。そして当寺は甲斐・武田家の菩提寺となったのである。天正元年(一五七三年)信玄が信州駒場の陣中で五十三才で病没した際、遺言によって三年間は喪が秘されたが、三年後快川国師を大導師として葬儀が行われ当寺に葬られた。天正十年(一五八二年)四月織田軍の兵火により、当寺は焼き討ちを受けた。このとき快川国師は百余人の僧侶と共に、紅蓮の炎に包まれた三門楼上にて、「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もまたすずし)」と唱え、泰然自若として火定されたという。同年六月に本能寺の変があり、七月に甲斐国に入った徳川家康は、快川国師の高弟が野州(栃木県)那須に潜んでいるのを知り、その高弟に当寺を再興させた。その後徳川幕府は当寺を外護し、甲斐十五万石の領主となった柳澤吉保の墓もこの寺に祀られている。 車を黒門前に止め参道を行くと、赤門に出る。赤門をくぐると左右に池があり、その先がかの三門である。門の両側に快川国師の有名な言葉が懸けられている。正面が開山堂であり、右手の庫裡より大本堂に入る。信玄公及び柳澤吉安公の墓へは、石畳を通って参る。それから大本堂の裏手に廻って、有名な夢窓国師作庭の「心池庭」を見る。庭は大本堂正面に心字の池があり、刈り込みと石の配置が見事である。そしてもう一つこの庭の構図を際だたせているのは、背景の樹木がまるで半円形のカーテンのように、山畔式の庭園を取り囲んでいることである。樹木の名は判らないが、特に右手の葉が鬱蒼と茂った大木が、この庭の一つのポイントとなっているように思った。大本堂から庫裡に懸かっている渡廊の所からは、清流の流れの見える庭もあり、この庭にさらに変化を与えている。境内内にある一休庵にてやや遅めの昼食を食べる。  

松 本 城

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この城は関ヶ原の戦いの前、千五百九十三年から四年にかけてその天守閣が造られた、と推定されている。その為天守の居住性よりも、武備を強化して造られている。天守は五重六階の大天守を中心に乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓と月見櫓を連結した「連結複合式」と呼ばれる珍しい型式の天守閣である。各層の外壁は上部は白漆喰の塗りごめで、下部は黒の板張りで、最上階には展望用の廻り縁は無く、数多くの銃眼や石落としを備えているとのことだ。国宝四城の内の一つで、その黒い色調から烏城と呼ばれている。お堀の側から見る。これは戦時に備えた機能美であると思った。しかし規模は想像していたものよりやや小さいと感じた。天守閣に入り最上層まで登る。階段が急で狭く登りずらい。最上層は割と小さく、吹き抜ける風が涼しい。見晴らしも良く、天気が良ければ上高地の穂高連峰も望めるはずである。 松本城

上 高 地

    軽井沢より小諸に向かう道を進む。王子支店の頃に二度来た大浅間ゴルフクラブの近くを通る。浅間山が見事に見える場所があったが、車が数珠繋ぎのため残念ながら写真は撮れない。小諸の手前で左に折れて、三才山トンネルを抜けて松本に出る。松本で給油をして上高地に向かう。野麦街道を遡り安曇村のダムをすぎて、沢渡(さわんど)まで車で登る。これから先は道も狭くトンネルも多いので、夏の期間は自家用車はここまでとなっているようである。もう昼の一時を過ぎていた。そこよりバスで上高地に向かう。三十分くらいで上高地の観光センターに着く。 歩いて梓川に川辺に出る。もうそこからは上高地の山々が見える。梓川の水も澄みきっており実に清冽である。川岸を歩いて河童橋に出る。やはり河童橋からの眺めは絶品である。安曇村はスイスのグリンデルワルトと姉妹村となっているようであるが、ここからの眺めが素晴らしいのは、途中に小さな山々が無く穂高の峰々が直接に切り立っている姿が見えるからだろう。正面の峰が奥穂高で三千百九十メートル、我が国で三番目に高い山である。その左手が西穂高、その右手に前穂高と明神岳が並び、穂高連峰を作り上げている。左の西穂高と、右の前穂高、明神岳がこの河童橋から見ると手前にあり、その両側の峰峰の裾野が逆三角形を作り上げており、奥穂高からは中央に沢が続いている。この自然が作り上げた絶妙な構図が、上高地からの景観を日本有数の山岳風景に仕上げていると思われる。 河童橋で何枚か写真を撮り、橋を渡ってさらにまた穂高連峰を見る。その後五千尺ロッジで昼食を摂る。時間も余りないため、またバスターミナルに戻り沢渡に戻る。途中の大正池からの眺めも絶景であるが、時間の都合上下車は出来ない。仕方がないのでバスの中から窓を開けて、何枚か五百分の一のスピードで写真を撮る。後から焼き回しをしてみると、上手く撮れていた。この上高地には、穂高連峰が白い雪を被ったころに又来てみたいと思う。

天 神 祭

  天神祭りの船渡御への乗船席を頂く。タクシーで乗船場所の飛翔橋に向かう。大川(旧淀川)沿いはすでに大変な人出である。飛翔橋に着いて大阪21世紀計画テーマ船の乗り場にゆく。すでに八割方の乗船客は来ており、艀のような船に乗り込んでいる。空いている席に座る。  暫くしてお弁当と飲み物が配られる。ビールを飲みながらお弁当を食べ終わる。しかしまだ船は出発しない。船は大きな艀のようになっていて、よく見ると我々の船は前の船とつながっている。前の船には野球選手の格好をした気球のようなものが着いており、その背番号の所にはサントリーと表示がある。夕方の暑い日差しを受けながら、お弁当を食べる。  六時近くとなってやっと船が動き始める。船の先端には女性の司会者がハッピにねじり鉢巻きで、いろいろと説明を始める。船渡御の説明とともに、大阪〆のやり方を全員に指導してくれる。(打ーちましょ「チョンチョン」もひとつせー「チョンチョン」祝うて三度「チョチョンガチョン」。)百隻の船がこの大川を上下するそうであるが、他の船と出会う度に、この大阪じめをやる事になるそうである。   まず飛翔橋をくぐる。橋の上にいる人たちに大阪締めを送る。それから川岸の人たち、下流より遡ってくる船に同様に大阪締めを送る。見物客の乗っている船の合間に、神楽船、人形船、能船、篝火船、等と出会い、ドンドコ船と言う景気の良い船が走りまわる。そして御神霊を乗せた奉安船ともすれ違う。この船にだけは大阪じめは送らない。大川を下るにつれ、日が沈み夕闇が川面をおおってくる。近くに座っていた浴衣姿の家族ずれとお互いに記念写真を取り合う。  花火は八時頃にたくさん打ち上げていたが、やや上流で打ち上げていたため、下流にいる我々の船では余りよく見ることは出来なかった。しかし二十一世紀協会の為に、造幣局あたりで特別の花火があげられた。  この船に乗っての天神祭り見物は、地元大阪の人出もなかなか経験できないとのことであり、大阪での夏の風物詩の良い思い出が出来た。