恵 林 寺

この寺は乾徳山恵林寺と言い、千三百三十年、鎌倉末期に夢窓国師を開山として創建された。二年後には鎌倉幕府討伐の先鋒となった細川顕氏が当寺に参禅し、顕氏の紹介で足利尊氏も当寺に夢窓国師を訪ねている。この縁がもとで後に尊氏が、後醍醐帝の追福のために国師を招請して嵯峨野に天龍寺を開基したのである。戦国時代になると武田信玄が、永禄七年(一五六四年)美濃・崇福寺より当代随一の傑僧と唱われた快川紹喜(カイセンジョウキ)を招請した。そして当寺は甲斐・武田家の菩提寺となったのである。天正元年(一五七三年)信玄が信州駒場の陣中で五十三才で病没した際、遺言によって三年間は喪が秘されたが、三年後快川国師を大導師として葬儀が行われ当寺に葬られた。天正十年(一五八二年)四月織田軍の兵火により、当寺は焼き討ちを受けた。このとき快川国師は百余人の僧侶と共に、紅蓮の炎に包まれた三門楼上にて、「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もまたすずし)」と唱え、泰然自若として火定されたという。同年六月に本能寺の変があり、七月に甲斐国に入った徳川家康は、快川国師の高弟が野州(栃木県)那須に潜んでいるのを知り、その高弟に当寺を再興させた。その後徳川幕府は当寺を外護し、甲斐十五万石の領主となった柳澤吉保の墓もこの寺に祀られている。

車を黒門前に止め参道を行くと、赤門に出る。赤門をくぐると左右に池があり、その先がかの三門である。門の両側に快川国師の有名な言葉が懸けられている。正面が開山堂であり、右手の庫裡より大本堂に入る。信玄公及び柳澤吉安公の墓へは、石畳を通って参る。それから大本堂の裏手に廻って、有名な夢窓国師作庭の「心池庭」を見る。庭は大本堂正面に心字の池があり、刈り込みと石の配置が見事である。そしてもう一つこの庭の構図を際だたせているのは、背景の樹木がまるで半円形のカーテンのように、山畔式の庭園を取り囲んでいることである。樹木の名は判らないが、特に右手の葉が鬱蒼と茂った大木が、この庭の一つのポイントとなっているように思った。大本堂から庫裡に懸かっている渡廊の所からは、清流の流れの見える庭もあり、この庭にさらに変化を与えている。境内内にある一休庵にてやや遅めの昼食を食べる。 

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