室 生 寺

 午前八時半の、難波発名古屋行きの特急にて名張に向かう。名張には九時半頃に到着、名張より各駅に乗り一駅戻り、室生口大野に着く。駅よりタクシーにて室生寺へ向かう。途中で大野寺の摩崖佛が見えるが、浮き彫りの像はあまりはっきりしていない。

室生寺に到着する。太鼓橋を渡って、表門に出る。室生寺は古代より水神の聖地として知られ、奈良時代には皇族の病気平癒祈願が行われて、その霊験あらたかだったと伝えられている。そう言った謂れのある地に、八世期末(七七八年)に興福寺の僧賢憬(けんえい)が室生寺を建立した。当寺は後に密教的色彩が濃くなり、真言宗に傾いた。高野山と異なり、当寺は女人の済度をはかって登山を許したので、女人高野と呼ばれるようになった。石段を登っていくと、弥勒堂と金堂がある。弥勒堂には平安初期の弥勒菩薩(重文)があったが、暗くてあまりよく見えない。金堂には釈迦如来立像(平安初期、国宝)を中心に右に薬師如来、地蔵菩薩を配し、左に文殊菩薩、十一面観音菩薩(平安初期、国宝)を配している。そうしてその前には、運慶作と伝えられる十二神将像が、一列に並んでいる。解説によれば、平安初期の国宝である釈迦如来座像もあるはずであるが、これも記憶に薄い。この像は右手は施無畏印(仏に対する者に安心を与える印)、左手は与願印(衆生の願いを施し与える印)の印相を構えている説法像であるとのことである。組足は結跏趺座像で左足を上にした降魔座(悟りを開いたときの組み方)である。釈迦如来は文殊菩薩(文殊はバラモンの子、最高の知恵者)と普賢菩薩(東方より白象に乗って法華経を護るためにやってくる)を脇侍として、三尊佛と言われる。金堂にある文殊菩薩はその脇侍かもしれない。金堂内は照明も暗く、有名な十一面観音菩薩も近くで見ることが出来ずに、残念であった。観音菩薩とは世の中の人々の声をはっきりと見定める力を持ち、慈愛の心で三十三の姿に変身して、教えを説くとされる。また、俗界に居て現実的な福や徳を人々に与え、災難をのぞくと言われる。十一面観音はその中で変化観音菩薩の一つであり、頭の周囲に菩薩面三つ、忿怒面三つ、狗牙上出面三つ、大笑面一つ、そして頭上に佛面一つを持ち、十一の悪をのぞき悟りを開かせると言われる。

金堂よりさらに石段を登ったところに灌頂堂があり、その左上に有名な五重塔(平安・国宝)が聳え立つ。五重塔は写真などから想像していた以上に小さく、高さは十六・七メートルしかないとのことである。屋外の五重塔としては、日本における最小のものと記されてある。桧皮葺きの屋根の勾配が緩やかであり、女人高野にふさわしい柔和な感じのする五重塔である。五重塔より先は山林となっており、地蔵菩薩が道の両脇所々に祀られている。「地蔵」の名は、大地のように忍耐強く安定していること、そしてまた慈悲深いことを神格化して命名されたと言われる。釈迦入滅後から弥勒菩薩が世に現れるまでの無佛時代に、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の衆生を救済することを嘱された菩薩であると言う。お地蔵さんはまた水子供養にも霊験あらたかであると言われている。賽の河原にかかる無明橋を渡る。河原には賽の石積みがいくつも見られる。橋を渡って少し歩くと、そこは急勾配の石段となっている。その石段を途中で一服しつつ、やっとの思いで登り上がる。

頂上の広場には、位牌堂、奥の院、御影堂(太子廟)と諸佛出願岩がある。その岩の上には七重石塔が造られている。位牌堂は山の斜面に造られており、清水寺と同じく舞台造りとなっている。奈良、平安初期に造営されたお寺は、山寺が多く、その為にこのような舞台造りの堂宇が多いいのだろうと思う。位牌堂の回廊に座して、しばし涼を摂る。爽やかな風が、山裾から吹き上げてくる。木々の緑の葉を透かして、のどかな田畑の風景が見下ろせる。

室生寺


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