高 桐 院

大徳寺の門前に到着する。昭和五六年頃に、この門前にある「一久」で、本店営業部の同僚であったS君と精進料理を食べたことも思い出される。境内はちょうど大茶会の時期であり、和服を着た女性が行き交っている。塔頭のひとつは織田信長の菩提寺となっており、そこでも茶会が開かれている。信長の葬儀は、秀吉が大徳寺でおこなったと書かれてあった。この地、紫野は昔の御所の北方、船岡山の北東に位置する地域の総称であり、洛北七野の内のひとつで平安時代は皇族の狩猟地であったという。大徳寺は鎌倉末期・後醍醐天皇の時代に、大燈国師により創建された(一三二四年)。その後室町中期に一休禅師が再興したお寺である。

最初にまず高桐院を訪れる。このお寺は細川幽斎の長子、細川三斎忠興(法名松向寺殿三斎宗立)により一六〇一年に建立されたもので、開山は幽斎の弟の玉甫紹琮和尚である。三斎は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三時代を巧みに生き抜いた智将であり、また利休七哲の一人として茶道の奥義を極め歌道も嗜んだ、文武に秀でた哲理の人であったと言われる。正室ガラシャ夫人は明智光秀の息女であったが、三斎は光秀にも組みせず明晰な洞察力を持ってその時代を生き抜き、八十三歳で没して当院に埋葬されている。その墓石は利休の秘蔵した鎌倉時代の石灯籠であり、秀吉の所望に対して利休はその裏面を欠き、疵物として秀吉の請を避けたという謂れのあるものである。そしてこの石灯籠は利休割腹の後細川三斎に遺贈され、その灯籠が三斎の墓石となっているのである。「天下一」の灯籠と呼ばれ、銘は「無双」または「欠灯籠」とも言う。書院は利休の邸宅を移したもので、その中に二畳台目の名茶席・松向軒がある。清厳和尚によるその命名の由来は、常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む、因って松向と名付くとある。三斎により建てられたもので、茶室にしては珍しい黒壁は瞑想の場の感あり、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席といわれる。庭園は楓樹を苔庭の上に配し、その配置の仕方も庭園の中程に数本、奥に十本あまり並べるという野趣ある造りで、楓樹も樹齢が古いためか丈が高くなっている。その為楓の葉は屋根にかかる高さとなっていて、見上げれば黄緑色の星が中空に懸かつているが如きである。



 

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