戒 壇 院

 大仏殿より、戒壇院へと赴く。鑑真大和上が前五回の失敗を乗り越えて、弟子の普照、思託とともに戒壇を築いて聖戒を日本の地に伝えるべく渡来したのは、天平勝宝六年(七五四年)のことである。そして言い伝えによれば、その時鑑真はインドのナランダ寺と塔の天台山の土を持ち来たりて、日本の土と合わせ三国の土で東大寺大仏殿の前に戒壇を築いたということである。そうして聖武上皇を始め四百四十余人に、大授戒を行ったのである。その後に大仏殿の西方に、戒壇院が築かれた。建立当初は金堂・講堂・回廊・僧坊などをそろえた大伽藍であったようである。そして戒壇の中央には金銅の六重塔を安置し、今のものとは異なる四天王を四隅に配していたという。戒壇は三段になっているが、これは大乗菩薩の三聚淨戒すなわち

    一、摂律儀戒 

二、摂善法戒 

三、摂衆生戒

を表したものという。

本堂内に入る。この身道は享保十七年(一七三二年)に再建されたもので、戒壇の中央には木造の多宝塔が安置されている。壮年の会社員の団体がネクタイ姿のままで拝観に来ている。その一団の拝観の後に、ゆっくりと四天王を拝顔する。四天王とはもともとインドの護世神であったが、仏教に取り入れられるや仏法とそれに帰依する人を守護する護法神となった。仏教的世界観では世界の中心にある須彌山に住む帝釈天の配下で、須彌山中腹の四方を守る神となった。須彌山を巡る四大州を、東南より時計回りにそれぞれ持国天、増長天、広目天、多聞天が守護するという。四天王信仰は飛鳥時代からあり、物部氏を撃った聖徳太子は勝利の後四天王寺を建てている。像容は本来決まった形がなく、インドでは貴人の姿に作られたが、日本では忿怒武装形となった。持ち物は多少異なるが、多聞天・広目天の他は原則として刀や戟を持っている。なお多聞天は毘沙門天とも呼ばれ独尊としても信仰され、後には福徳高貴の神として七福神の一つにもなった。そしてこの四天王はすべて天邪鬼を足下に踏みつけている。

まず持国天から見る。この持国天は兜をかむり、目をかっと開いて口をへの字に結んでいる。次いで多聞天を見る。この多聞天は左手を降ろして巻経を持ち、右手を上にあげて宝塔を捧げ持っている。眼は半眼で口はぐっと引き締められている。

    「四天王の中でただ一人、怒りのデルタを持たないのが多聞天であ

    る。だから言いたい。私たちが彼に見るのは苦渋であり、苦悶で

    あり、男の底知れぬ悲しみである」

    「多聞天は男の中でも、最も男らしい慟哭である。男は涙を流さな

    い。けれども心の中では、かきむしられた血まみれになった悲し

    みと戦っている。戒壇院のあるじ内田氏に、戦時中は広目天より

    多聞天に惹かれるものが多かったと教えられる。戦わねばならな

    い男の苦渋と慟哭とは、ここにきわまるといってよく、男達は多

    聞天になる可能性を持っていたと言っていい」

                         吉村貞司

 広目天を見て、すぐに増長天に行く。増長天は錫丈を右手に立てかけて、左手は腰に置いている。そして口を阿形に大きく開けてひっしとばかりにこちらを睨み付けている。また広目天に戻る。広目天の体には他の天と比べると、忿怒の力が体そのものにも出ていないように感ずる。右手はだらりと力を抜いて下げて、筆を握っている。そして左手は肘を曲げて前に出し、巻経を緩やかに握っている。そのお顔にも忿怒は見られない。しかし厳しい表情で目を半眼にして遥か遠くを見据えている。この表情の中には、個人的なもしくは感情的な怒りの表情はない。かえってより深い普遍的なそして精神的な怒りが、広目天の体内に漲っているのを感ずる。これほどまでの深い精神的な怒りを表した彫像を、かつて人類は持ち得たであろうか。この仏像は深く人間を洞察し尽くした仏師のみが造形しうるものであるが、それを為し得た仏師が天平時代の我が国に存在していたのである。そしてこれら四体の四天王を創り上げた仏師達の中でも、この広目天を担当した仏師は卓越した人間性と技巧の持ち主であったのだろう。我々は広目天を拝顔するだけで、人間というものの精神の深遠さの素晴らしさに、深い感動を覚えるのである。

    「この広目天こそは、人類が作り出した最もすごい怒りである。そ

    の怒りの表現の秘密は、眉間のデルタにある。作者はデルタのみ

    で怒りを表現できることを知った。彼は大胆にも動作としての激

    しさ、とかく誇張や強調にのみ向かいたがる人類共通の一般概念

    に背いて、最も静かな肉体へと赴いた。感情や個性を強調する変

    わりに、抑制と否定によって心理の深さに到達することの出来た

    能面と同じ原理が、広目天にも働いている」 

    「正確に言うならば、私達は怒りと静寂の二重構造において広目天

    を見ているのだ。したがって私達が感ずる怒りは、肉体にだけ還

    元された単純なものではない。私達は怒りを感ずるが、肉体その

    ものは怒りを表現していない。この二重構造の矛盾が、広目天の

    怒りを肉体的なものではなく、精神的なものに感じ取らせる。広

    目天のような方法を取るならば、強さと同時に精神的な深さとな

    り、深さとは精神性と肉体生との落差とも言える。つまりは肉体

    的感情のエネルギーを、せき止めればせき止めるほど、精神力の

    偉大さと厳しさが現れるのである」

                  吉村貞司  「愛と苦悩の古仏」

戒壇院


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