東 大 寺 大 仏 殿 付 近

 亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」によれば、こうして焼失する前の東大寺の伽藍は下記のようであったという。

   「天平時代に造られた当時の大仏殿は、もちろん今の大仏殿の比では

   なかった。奥行きは変わらないが間口は遥かに大きく、殆ど二倍く

   らいの感じであった。堂々とした長い反りを持った重層の大屋根。

   それを支える正面十何本の太い円柱、この雄大な金堂を囲む回廊も

   今のような単廊ではない、壮麗な複廊である。この前面の広場、即

   ち正面に当たる南大門との間には、左右にそれぞれ東西の七重塔が

   高々と青空に聳えていた。三百三十余尺というその高さは実に法隆

   寺の五重塔の三倍、興福寺五重塔の二倍に当たる。大仏殿の背後に

   は、これにふさわしい大講堂や食堂が建っていた。さらにこれを囲

   んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山の麓、

   方八町、二十四万坪の境内に新しい甍を陽に輝かしていた。のみな

   らず、一切の建物が美しい朱や緑に塗られ、透かし彫りの金具や軒

   の風鐸などがきらびやかに相映えた」 

 大仏殿の前に立って、南大門の方を見る。左手に池があるが、南大門までの広い空間には他の構築物は何もない。しかし上記のように、この左右の空間には興福寺の五重塔の二倍の高さを誇る壮大な七重塔が、天に聳えていたのである。こんどは振り返って門を通して大仏殿を見る。この大仏殿もその間口が今の二倍あり、堂内には薬師寺の薬師如来のように荘厳で慈愛に満ちたお顔の廬舎那仏が、その左右に三丈の高さの如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩の座像をを脇侍として、崇高壮麗なお姿を見せていたのである。そしてその四方にはまた身の丈四丈の金色の四天王が、彩色鮮やかな甲に身を固めて四隅を護持していたという。今より千二百年前の、我が国が中国文化と仏教をまさに必死の思いで摂取していたその揺籃期に、かくも空前にして絶後の大伽藍と限りなく壮麗な廬舎那仏を創り上げていたということに、我々は驚きとも言うべき感銘を覚えないではいられない。

大仏殿


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