中 宮 寺

中宮寺を訪れる。このお寺を初めて訪れたのは、昭和四十四年に広島支店の入行同期の仲間と、白浜・高野山・奈良の旅行をしたときである。それから大阪外国事務課時代に一人で来たのと、広島の高校以来の友人達と来たことがある。その後名古屋の柳橋支店にいたときに、義理の弟のいる大和小泉に遊びに来たときにまた訪れている。そう考えてみると、十一年振りに五度目の拝観ということになる。

この寺は表門の入り口を入ったところの小さな庭が、和やかで懐かしい感じがして好きである。本堂は鉄筋コンクリート造りとなっており、やや冷たい感じがあるのに対して、入り口付近は暖かみを感じる。中宮寺は聖徳太子の御母・穴穂部間人皇后の御願により、太子の宮居・斑鳩宮を中央に西の法隆寺と対照的な位置(現在地の五百メートル東)に創建された寺であり、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式伽藍であったことが確認されている。法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として、当初より計画されたと見られている。しかしその後平安時代に衰退し、宝物は法隆寺に移され、草堂一宇に弥勒菩薩のみが残った。鎌倉時代に信如比丘尼の尽力で、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵中に発見して、中宮寺に取り戻すなどしたが、戦国時代に戦火に遭い法隆寺の東院堂内に避難、そのまま現在地に残ることとなった。慶長年間に後伏見天皇八世の皇孫・尊智女王が住職となり、以来門跡尼寺として大和三門跡尼寺の一つとされる。新本堂は高松宮御発願により昭和四十三年に落慶、耐火・耐震の御堂が完成している。宗派は鎌倉時代は法相宗であったが、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後法隆寺が聖徳宗を創設したのに合流し、現在は聖徳宗に属している。

山吹を配した砂利道の参道を廻ると、新本堂正面に来る。新本堂は三方を池で囲まれており、やや冷たい感じはするがその形姿は優美である。真冬の曇り日であるためか参拝者が少なく、前の人達がちょうど退出したので、御堂内は案内の人のみであり私一人の借り切りとなる。

本尊弥勒菩薩半跏思惟像との初めての逢瀬は中宮寺の新本堂建設中であった。京都の大学に行っていた友人とその知り合いの双子の姉妹と共に、京都・奈良をレンタカーで廻ったときのことと思う。確か大学一年か二年の時であるので、昭和三十九年か四十年のことである。その時の弥勒菩薩像は、興福寺の宝物館に間借りをされていた。その時以来この中宮寺に四回詣っているので、弥勒菩薩との逢瀬は今回で六度目である。一人御仏の御前に正座して、お姿を拝する。この御仏は飛鳥時代の彫刻の最高傑作であり、東洋美術における「考える像」として世界的に著名とのことである。国際美術史学者の間ではこのお顔の優しさを評して、「古典的微笑(アルカイック・スマイル)」の典型とされ、エジプトのスフィンクス、ダ・ヴィンチのモナ・リザと並んで「世界の三つの微笑像」と呼ばれているようである。堂内の説明テープでは、次のようなことを述べていた。

 「御仏は聖徳太子の御母・穴穂部間人皇后のお姿を写しているともいわ

  れており、世の中の悩み苦しむ人々をいかにして救うかをお考えにな

  られています。本日この御仏を拝された皆様は、そのお優しい御眼差

  しを何時までも心に残し、人々にその微笑みをお分け下さい」

  説明の後、ゆっくりと御仏のお姿を拝する。頭上の二つの丸い髷、慈愛の籠もった上品なお顔立ち、柔和に長く伸びている眉毛の曲線、心の大きさを思わせる眉毛と眼の間の幅広さ、瞑想するために殆ど閉じられている瞼、鼻筋が細く引き締まったお鼻、そして口角を少し上にあげて優しく微笑んでいるその口許、長く伸びている豊かな耳朶、そっと頬に添えられている右手、中指を中心とする柔和な指先、これほどまでに気品と慈愛と微笑に満ち満ちた御仏のお顔が他にあろうか。そしてそれは御仏でありながら同時にまた、人間でもあるという神聖なお顔である。肩幅は広く肉付きも良く、その肩には髪が四筋ずつ垂れ下がっている。手前と一番奥の髪は上博部の中央で丸まっており、手前より二つ目の髪は上膊部で丸まり、残りの髪は肘のすこし上まで垂れ下がっている。胸も肉付きが良く柔らかい膨らみを見せているが、胸より下の上半身はぐっと細く引き締まっている。右足首を左足の膝の上に乗せており、左手はその組んだ右足の足首に置かれている。御仏は台座に座っていると思われるが、そのため衣が腰から下の部分をしっかりと蔽っている。その衣の襞の表現は、実に見事である。楠の一木作りと伝えられている。後程案内の方に聞いたところでは、御仏は当初は彩色豊かであった。しかし長年の焼香によって、今では黒光りするほどになったようである。この古色がさらに御仏を崇高ならしめているように思われる。まさにこの御仏の前で、時代時代の様々な人々が念じ続けてきたその祈りを、御仏が焚きしめられた焼香と共に、その御体内に掬い上げられてきたためであろうとすら思われる。光背は頭部の後方に円形で飾られており、堂内ではよく見分けることが出来なかったが、写真によればやや花弁の短く二重となった花が配されている。その周囲は草花の模様で、外周は炎の中に化仏が七体配されている。

 案内の方の説明では、御仏には弥勒菩薩と刻んであるとのことであるが、一時期弥勒菩薩信仰を禁じた時期があり、その時期は如意輪観音と呼んでいたため、現在でも如意輪観音と呼ばれることもあるそうである。如意輪観音とは観音の中でも仏の説法・転法輪(仏が法を説いて迷いを救うこと)が自由に出来、衆生を救える観音菩薩であるという。また悪を去らせ濁った水を澄ませる不思議な如意宝珠と言う玉の人格化された菩薩で、この宝珠は金銀財宝を生むことが出来、忍苦の衆生はそれによっても救われると言われる。

今迄の拝観時は弥勒菩薩にばかり目が行き、他の仏像は余り気にもしていなかったが、今回よく見ると弥勒菩薩の左手は薬師如来、右手に阿シュク(門+人、人、人)如来(共に平安時代)が脇侍として配されており、弥勒菩薩の前には雨宝童子がいる。これは天照大神と大日如来の化身とされており、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説(本地であるインドの仏が衆生を救うため、仮の姿として現れたのが垂迹神たる日本の神であるとする説)に則ったもので、鎌倉時代の作である。

如来の種別によると大きくは三つに分けられ、顕教四尊仏(薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来がおのおの東西南北に位置づけられている)と密教の五智如来「金剛界」(大日如来「中」、阿シュク如来「東」、宝生如来「西」、無量寿如来「西」、不空成就如来「北」)、五智如来「退蔵界」(大日如来「中」、宝幢如来「東」、開敷華王如来「南」、無量寿如来「西」、天鼓雷音如来「北」)の種別があるようだ。尚金剛界の大日如来は智拳印、退蔵界の大日如来は法界定印を結んでいるという。当寺は平安時代には法相宗であった訳だが、その時代に密教の阿シュク如来が奉安されたということは、法相宗にも密教の教学が入り込んできたということであろうか。

もう一つの国宝として天寿国曼荼羅繍帳の複製が展示されている。これは御年四十八歳で薨去された聖徳太子を偲び、御妃橘大郎女が太子の往生されている天寿国という理想浄土の有様を采女達に刺繍させたものと伝えられている。

法隆寺から中宮寺へと仏像を見てきて思うのは、飛鳥時代(五九三年~)白鳳時代(六四五年~)奈良時代(七一〇年~七九四年)の二百年の間で、仏像の顔および体躯が大きく変化しており、また同じ飛鳥時代の同時期でも異なる様式が見られることである。

彫刻史を紐解くと、次のことが判明する。飛鳥時代は「夢の彫刻時代」とも呼ばれ、中国の六朝文化が朝鮮半島の高麗・百済・新羅等を経て日本に伝えられ、超自然の神秘性と共に純粋且つ洗練された造形の美を見せる仏像が作られたということである。六朝時代の様式も大きく三つに分けられ、法隆寺金堂の釈迦三尊像に見られる北魏様式、広隆寺・中宮寺の弥勒菩薩のごとき北斎・北周などの中部様式、そして法隆寺金堂の四天王に見られる随様式がそれである。

白鳳時代には大化改新の頃から取り入れられていた初唐の様式が、天武・持統・文武帝の頃に定着し、薬師寺金堂の薬師三尊像は持統帝の時代に造られている。またこの時代の代表作としては他に、薬師寺の聖観音菩薩、法隆寺の夢違い観音などがある。その表現も明るく若々しくそして実に力に満ちあふれた力強さを湛えており、美の極致に到達していると言える。その故に白鳳彫刻が我が国で最も優れた芸術品であると言われる由縁である。

天平時代には聖武帝により始められた国分寺の造営で、仏教文化の地方分散と国家権力の中央集権化が実現された。そして彫刻に於いては、白鳳時代の初唐様式を日本化していった時代である。概してゆったりとしてのびのびしたおおらかさ、明るさ、豊かさが特徴といえる。三月堂の不空羂索観音、日光・月光菩薩、戒壇院の四天王、新薬師持の十二神將、興福寺の阿修羅像などがあげられる。その他では普賢寺の十一面観音、秋篠寺の伎芸天もこの時代に造られている。 

中宮寺 本堂


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