法 隆 寺

 JR大和路線の快速で、大阪駅より法隆寺へと向かう。天王寺から法隆寺までは、二十分くらいで到着する。思っていたより早い。大和路線は天王寺より平野・八尾を南東へ下り、高井田あたりで大和川沿いとなり、山を越えて王寺に至る。王寺の次の駅が法隆寺である。法隆寺駅の南口のサイクルセンターで、自転車を借りる。自転車で十分くらい走ったところに法隆寺がある。参道も長く広くて、さすが法隆寺である。南大門の前の喫茶店で、ぜんざいを頂く。

南大門より入山。西院伽藍へ向かう道も、美しい景観を持っている。法隆寺は聖徳宗大本山であるが、もともと推古天皇と聖徳太子が、用明天皇のために発願、推古十五年(六〇七年)に開基されたと伝わっている。しかしこのもともとの建物は、天智天皇九年(六七〇年)に焼失したと日本書紀には書かれている。その後発掘調査の結果、旧若草伽藍は四天王寺方式であったらしい。そして現在の法隆寺式伽藍は、和銅元年(七〇八年)に再建されたものである。

仏教伝来は古墳時代の宣化天皇の御代で、五三八年に百済の聖明王が仏教経綸を献じたのが、仏教の日本における始まりである。推古天皇は五九三年に即位、五九三年には聖徳太子が摂政となり難波の四天王寺を創建、五九六年には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を創建している。また六〇一年には推古天皇が、豊浦宮より斑鳩宮に移っている。いずれにしても仏教伝来より七十年にして、かくも壮大な伽藍を創り上げたというところに、日本における天皇家の仏教への傾注と、日本の文明吸収力のたくましさが現れていると思う。

法隆寺は五重塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とする東院伽藍に分かれており、西院伽藍の世界最古の木造建築郡は、一九九三年にユネスコの「世界文化遺産」に指定されている。南大門より中門に向かう。境内図によれば、西院伽藍の手前左に弁天池、右に鏡池が配されている。中門は仁王門とも呼ばれ、左右に立つ金剛力士蔵(重文)は和銅四年(七一一年)の作である由。回廊左手の入り口より入る。回廊内は白砂青松の中に、左に五重塔、右に金堂が整然と立っている。この斑鳩の地は偶々戦火に見舞われることがなかった為、こうして千四百年も昔の伽藍が聳えているわけであるが、それほどの古さを感じないのはどうしてであろう。建築様式そのものも徳川時代に建てられたものと大差はないし、また瓦などにしても維持管理がよいためか古めかしさが余りない。

五重塔の内陣には塑像群が見られる。この塔は日本最古の塔でありながら、今一つ印象的でないのはなぜであろうか。薬師寺の塔のごとく裳階が無いのも、個性が感じられない理由の一つであろう。あまりに端正すぎて、表情の薄い美人の面のように思われた。

次ぎに大講堂を見る。これは落雷により焼失したものを、平安時代(九九〇年)に再建したもので、本尊の薬師三尊像(国宝)がある。薬師如来は古くから信仰を集めた仏である。衆生の人格を高め、衣食住を豊かにし、病苦・災禍を除くなど、十二の誓願を仏はたてられたが、それらのうちの第七の誓願が( 一切の衆生の病苦を除き、心身を安楽にして悟りを開かしめる )という願で、それに基づいて薬師如来の名が付けられている。この十二の誓願はいずれも現世利益的なものが多く、薬師瑠璃光如来とも呼ばれており東方の浄土に居られるとされている。分身七体があるとされ七仏薬師とも呼ばれるが、多くは光背に化仏として顕される。代表的なものとしては、薬師寺の坐像、法輪寺立像、旧山田寺仏頭、秋篠寺本尊坐像、新薬師慈本尊坐像、神護寺立像、元興寺立像などがある。全て飛鳥時代 推古、舒明、皇極 )、白鳳時代( 大化六四五年以降、天智、天武(白鳳)、和銅 )、天平時代 和銅七一〇年以降、天平、延暦 )、平安時代( 七九四年以降 )に造られている。大講堂には四天王像もあるが、薬師三尊も含めて感銘少なし。

ついで金堂に廻る。ここには聖徳太子夫妻のために造られた、金銅釈迦三尊像(止利仏師作、飛鳥時代)がある。このほか太子の父君・用明天皇のための金銅薬師如来、太子の母君・穴穂部間人皇后のための金銅阿弥陀如来(鎌倉時代)、我が国最古の四天王像(白鳳時代)吉祥天・毘沙門天・地蔵菩薩(平安時代)が安置されている。金堂内部は薄暗く、しかも格子戸の網を通してのぞき見るため極めて見づらく、とても鑑賞することの出来る状況ではない。再現されたという壁画も、全く見ることが出来なかった。

 回廊より鏡池のほうへ出る。池畔に正岡子規の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句碑がある。

法隆寺


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