四 天 王 寺

 大阪のガイドブックを見ると、日本最古の官寺は四天王寺と書いてある。それで表敬の意もこめて、当地赴任の最初のお寺参りは四天王寺とする。

 地下鉄の駅より南に相当歩いて、四天王寺の中門より境内へはいる。先ず六時堂を参拝する。午前十一時頃であったが、沢山の人たちが祈願に参っており、薄い木片に名前やおまじないを書き付けたものを、お坊さんに祈祷して貰っている。六時堂の前は亀が放たれた池となっている。その池の向こうに、亀井堂というのがあり、祈祷して貰った木片を、亀井堂の中にある小さな池につけて、占いをして貰っている。このお寺ではまだ、仏への信仰がしっかりと地元に根付いており、お寺そのものが本来の機能を発揮して、生き生きと活動している、と言う感じを強く持った。

 四天王寺の縁起は、聖徳太子の戦勝祈願にある。太子は蘇我氏とともに物部氏と戦を行うこととなった。その折に太子は救世観音に戦勝祈願を行い、勝利の暁にはこの地にお寺を建立することを約束され、物部氏を倒した後、推古天皇元年五九三年に当寺を建立されたということである。鎮護国家の道場としてまた済世利民の実践場として、当寺は政治・外交・文化の中心地となったようである。

 昭和二十年三月の戦災により、金堂・五重塔・講堂・仁王門は灰燼に帰したが、昭和三十八年に再建され、飛鳥時代のままに四天王寺式伽藍の、仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に南北に並び、その周りを回廊が巡っている。金堂には本尊の救世観世音菩薩が安置され、その四方に四天王が配置されている。救世観音はまだ新しく金色に輝いているが、返ってその為に威厳が少ない感じがする。周囲の壁画は中村岳陵画伯により描かれており、釈尊の誕生・カピラ城出城・降魔成道・初転法輪・涅槃の順に、釈尊の生涯を彩色豊かに描いてある。五重宝塔は相輪の部分が塔全体の三分の一もあるほど長く、くわえて屋根の勾配が緩やかであるため、各層の屋根と屋根の間がやや狭すぎるという印象がある。講堂は聖徳太子が講義をされた場所で講法堂と呼ばれ、堂内は夏堂と冬堂に分けられている。夏堂には阿弥陀如来座像が、冬堂には十一面観世音像が安置されている。この御堂の壁画は郷倉千靱画伯によるもので、玄奘三蔵法師の「仏教東漸」の事跡が描かれている。

 宝物館で国宝「扇面法華経冊子」などを見て、太子殿(聖霊院)にお参りして息子達に学業成就祈願のカード型お守りを購入する。その後境内の茶店で少し休む。四天王寺からの帰りに、天王寺公園による。ここにある市立美術館を見るつもりであったが、ちょうどナポレオン展を開催しており大変な人出である。そこでその裏手にある慶沢園を散策する。この地はもともと住友の茶臼山本宅のあったところであり、この慶沢園は京都の円山公園を造園した小川治兵衛の手になるものである。

大阪の町を見て思うことは、この地も難波の宮跡があるようにかつては王城の地であったにも拘わらず、そのことを忘れて史跡などの観光資源を、どうも大切にしていないように思われるのは残念である。

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