岡 山 後 楽 園

 十時過ぎに岡山に到着。岡山駅より後楽園に向かう。鶴見橋を渡って、庭園入り口に着く。後楽園は旭川の中之島を使って造られており、河岸も見事に整備されている。西外苑を通って、正門へ向かう。西外苑は芝生と所々に大木も植わっており、庭園への導入部としてはなかなか良い。

後楽園は備前藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて、十四年の歳月をかけて造らせたもので、完成は一七〇〇年、五代将軍綱吉の元禄時代である。一七〇〇年前後の同世代の人物としては、十七世紀の後半は酒井田柿右衛門、黄檗宗の隠元、石川丈山、野々村仁清、井原西鶴、松尾芭蕉、菱川師宣、水戸光圀、狩野探幽がおり、十八世紀の前半は尾形光琳、近松門左衛門、尾形乾山、石田梅岩などがいる。園の名称は、亭を主とすれば茶屋屋敷、園を主とすれば後園と呼ばれていたが、明治四年に後楽園と改められた。江戸時代を代表する回遊式庭園で、面積は十三ヘクタールもある。

馬場の方より水路を越えて、芝生の植えられた広場に出る。沢の池の砂利島、池の向こうの唯心山、そしてその右手に烏城(岡山城)が展望でき、これこそが後楽園の景観であると言うべきものが一望に見渡せる。ただ一つ気になったことは、芝生というものは明治以降になって輸入したものであろうから、それ以前にはこの広々とした広場はどのようになっていたのであろうかという疑問である。芝生の植わっていない景観というものは、又違った印象を与えるのでは無かろうか。

曲水に沿って、園路を鶴鳴館の方へ歩む。曲水の中は長い藻が生えている。茶亭延養亭も華美でない落ち着いた柔らかい印象を与える建物である。花葉の池を巡り、大立石を見る。瀬戸内海よりいくつかに砕いて運び込み、また合成したという巨岩で、陰陽を表しているそうである。その裏側は昔旭川より船を引き入れていた跡もあり、烏城より船に乗って曲水を通って延養亭に着き、茶室に入ったとのことである。築山の唯心山に登り、園内を一望。築山より下りて、流店(るてん)を見る。曲水の流れを流店に引き入れており、水流の少ない折りは、本流を板でせき止めて流店に流すように出来ている。藩主が上に座って酒を飲み盃を流れに浮かべて流し、それを家臣が受け取りまたその盃で酒を飲んだところから「お流れ頂戴」という言葉が出来たとのことである。流店の向こうは菖蒲畑となっており、ここでの酒宴もまた風雅なものであったと思われる。流店から池の方へと歩く。右手は田圃になっており、その向こうは一面の茶畑である。庭の中に稲と茶を植え込むことで田園風景を配置して、一つの世界を創出しているのもまた面白いと思う。五十三次腰掛け茶屋の方から眺める景観も良い。沢の池には左より中之島、御野島、砂利島と三つの島があり、これも瀬戸内海を模したものと思われる。

池田光政公は名君として藩内の勉学を盛んにしたが、綱政はその跡を受け継いで、これだけの壮大な大名庭園を残したわけだ。しかもときは元禄文化が大きく華開いた時期である。文化が華開くためにはそれだけの経済的基盤つまりゆとりが必要であり、同時に文化を振興させる立役者としての文化人及び君主が必要である。ゆとりの中から裾の広がりのある趣味人が輩出し、その頂点に立つ文化人が君主と共同で、後世に残る文化遺産を創り上げるわけである。また傑出した文化人は同時期の文化人同士の交流により、益々その質を高めて行く。つまり歴史的に見ると、結果的に同じ時期に有名な文化人が集中する事となるのである。

後楽園を出て、旭川沿いに車で走り、後楽園と烏城を眺める。烏城は川が蛇行しているそのちょうど曲がり角に建てられており、平城ではあるが、戦いを意識した造りとなっている。この城は南北朝時代よりあったとされているが、本格的には十六世紀末に宇喜多秀家によって築城された。同時期の城としては、松本城があり、少し降って十七世紀始めには彦根城、熊本城、姫路城、松江城、など日本の歴史に残る名城がたくさん築城されている。

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