中 宮 寺

 夢殿を辞して、中宮寺に入る。このお寺はもと太子の御母君・間人穴穂部皇后(はしひとのあなほべのおおきさき)の宮であり、皇后崩じ給いしのち尼寺にしたと言われる。お御堂の周りは山吹の黄色の花が咲き乱れており、春の息吹を感じる。堂内に上って、弥勒菩薩半跏思惟像を拝する。気高く柔和で幽遠な微笑が、御仏の全てから漂い出ている。

   「深い瞑想の姿である。半眼の眼差しは夢見るように前方に向けら

   れていた。稍々うつむき加減に腰掛けて右足を左の膝の上にのせ、

   さらにそれを静かに抑えるごとく左手がその上におかれているが、

   このきっちりと閉まった安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。

   厳しい法則を柔らかい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右

   腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く頬にふれている。指の一

   つ一つが花弁のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊か

   な感じにあふれていた。そして頬に浮かぶ微笑は指先が触れた刹

   那おのずから湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の

   生んだもっとも美しい思惟の姿と言われる。五尺二寸の像の全て

   が比類なき柔らかい線で出来上がっているけれど、弱々しいとこ

   ろは微塵もない。指のそりかえった頑丈な足を見ると、生存を歓

   喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘を彷彿とせしる。その瞑想と

   微笑にはいかなる苦衷の痕跡もなかった」

                           亀井勝一郎

 御堂内の座敷の一番前に坐して、間近に弥勒仏のお顔を拝顔する。その優しく気高いお顔を見上げるとき、御仏の優しい微笑みのベールに我々はくるまれてしまうかのようだ。そうして御仏と共に麗しい天寿国の平安楽土の中にあって、静謐さ溢れた瞑想の境地に遊ぶかのような感覚を覚える。しかしその瞑想の深奥には、実は深い悲しみがある。同族・骨肉の相争う凄惨な悲劇の哀しみを、そして人間として生きて行く限り免れることの出来ない迷妄と無間地獄の悲哀を味わったもののみが、それを乗り超えて至ることの出来る慈悲の境地なのである。その口許に顕されている微笑み、否口許のみならず頬に添えられた指先にも、そして弥勒菩薩のお体全体から漂う微笑みは、迷妄と無間地獄を超えた慈悲の境地から湧き出てきているということを、我々は読みとらなければならない。

    「慈悲とは高所よりの同情心や博愛でなく、もっと身につまされた

    生の嘆きであろう。そして慈悲の根底にある無限の忍耐、いわば

    人生を耐えに耐えたあげく、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ」

    「菩薩の微笑とは、あるいは慟哭と一つなのかもしれない。凄惨な

    人生に向かって、思わずわっと泣くほんの少し前に浮かび出る微

    笑であるかもしれない」

                          亀井勝一郎

  この御仏は上宮太子の御母君・間人穴穂部皇后を偲んで造られたと言う。この飛鳥人の造形した御仏を我が国に有することに、我々日本人は誇りを感じないではいられない。亀井勝一郎の言うように、「凄惨な生の呻吟から、飛鳥人が心魂をこめて祈った」その祈りの境地の、崇高さと深遠さを思わないではいられない。それは人間の崇高さと悲惨さの両方を深く味わったもののみが至ることの出来る、至高の境地である。そのことを思うとき、我々現代に生きるものの人間としての思いの低さに、忸怩たる感がする。亀井勝一郎は終戦の年・昭和二十年の秋に、大和の寺を巡って書き残している。「幸いにして、大和の古寺は残った」しかし「国民の道義はすたれ、信仰の日は去ろうとしている」。現在の政治、経済の混迷を目の当たりにするとき、我々は思う。何時の日に、日本人は崇高さへの信仰を、そして偉大さへの讃仰を忘れ去ってしまったのであろうか。日本人としての清浄な魂を見失ってしまったのであろうか。経済的繁栄は、人間の幸せのための単なる一つの価値でしかない。人間が幸せであるためには、裕福さよりはもっと大切な人間としての尊厳があるはずである。崇高さへのそして人間の尊厳への信仰を、我々日本人に取り戻すことこそが、今まさに求められているのではなかろうか。この御仏の慈悲と微笑のお姿にまみえるとき、我々現代人が忘れ去り、失ってしまった日本人の心を、私達は教えられるような気がする。

           中宮寺に思惟の像を拝して

    「 いにしへの 飛鳥をとめと 慕(しの)ばるゝ 尼のみ寺の

    みほとけや 幾世へにけむ 玉の手の 光りふゝみて

    幽(かそ)けくも 微笑(えま)せたまへる 頬(ほ)にふれつ

    朝な夕なに 念(おも)はすは 昨(きそ)の嘆きか 

    うつし世の 常なき愁か 頬にふるゝ 指のあはいに 春ならば

    くれないの薔薇 秋日には 白菊一枝 ささげなば 

    君がおもひぞ いや清(さや)に 薫りめでたく 深まりぬらむ

                               亀井勝一郎

 御堂の左手にある「天寿国曼荼羅繍帳」を見る。上宮太子は、推古天皇三十年に薨去された。その前日には太子の正妃膳大刀自(かしわのおおとじ)が亡くなられ、前年の暮れには母后・間人大后が崩御されており、上宮一家の悲嘆はひとかたならぬものがあった。この天寿国曼荼羅の断片は、太子のご冥福を祈って妃のひとりである橘(多至波奈)大郎女(たちばなのおおいらつめ)が侍臣や采女とともに刺繍されたものという。天寿国とはパラダイスのことであり、「法王帝説」によると、「即ち無量寿国にして、いわゆる無量寿仏の國なり。また阿弥陀浄土と称す」とある。亀甲形が縫いつけられているのが印象的であった。

中宮寺


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