夢 殿

 大宝蔵館より出て、夢殿に向かう。この夢殿・中宮寺を、東院伽藍と呼んでいる。そしてこの夢殿の地は、上宮太子のお邸であった斑鳩宮の趾と言われる。上宮太子薨去のあと、上宮太子と蘇我馬子の娘であり太子の妃だった刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれた皇子・山背大兄王(やましろのおおいねのみこ)はよく先王の遺訓を護って推古天皇、舒明天皇、皇極天皇に仕えてきた。しかし馬子の孫である蘇我入鹿は古人大兄(ふるひとおひね)を擁立して、ついに山背大兄王を斑鳩宮に襲わしめた。王は一族と共に胆駒山(いこまやま)に隠れたが、このとき斑鳩宮は灰燼に帰してしまった。王の侍臣三輪文屋君は「東国に逃れ軍を起こして還り戦わん」と進言したが、王は肯んぜず胆駒を出て、従容として斑鳩寺に入られた。やがて入鹿の軍勢が寺を包囲したとき、「吾が一身をば入鹿に賜ふ」と告げて一族と共に自頸された。子弟妃妾十五名、時を同じゅうして悉く王に殉じたという。この悲劇の約百年後の奈良時代に入って、再建された夢殿が幾度かの補修を経て現在に伝わっているという。もとは斑鳩宮の寝殿の近くの、隔絶された太子内観の道場であり、太子はここに籠もって深思されたと言われている。

上宮太子はその十七条の憲法を顕されたが、これは骨肉相争う、凄惨な日々を過ごされた太子の祈りとも言えるものだと、亀井勝一郎は書いている。特に肝要なのは最初の三箇条であるという。

   一に曰く、和(やわらぎ)をもって貴しと為し、忤(さから)う

      こと無きを旨とせよ

       二に曰く、篤く三宝を敬え、三宝は仏法僧(ほとけ・のり・はふし)

   なり

   三に曰く、詔を承りては必ず謹め、君をば則ち天(あめ)とす、

   臣(やつこら)をば則ち地(つち)とす

 「以和為貴」「篤敬三宝」「承詔必謹」が太子の人間に対する深い観察と大乗の愛を説いていると言われている。夢殿の地がこうして太子が深い思いを巡らした内観道場の地であり、そして山背大兄王の悲劇の歴史の地であることを思うとき、時空を隔ててその地に立ち、夢殿を見ている我々の存在の不可思議さを覚える。

夢殿はちょうど「救世観音」を開扉しており、始めて実際のお姿を拝する。薄暗闇の中に「救世観音」はその日本人離れしたお顔と上半身を露に、我々を見つめ返してくれたような感じがした。この秘仏は太子を写した等身像であるとも、また太子の念持仏であった「金人」(太子の夢に出てきたものを仏と為したもの)とも言われるが、秘仏のお顔から受ける印象はその体内に喜怒哀楽のおどろおどろしく駆け巡る異相であると感じる。

   「老僧は静かに厨子の扉を開いた。立ち現れた救世観音は、くすんだ

   黄金色の肉体を持った神々しい野人であった。瞳の無い銀杏型の目

   と分厚い唇、その口辺に浮かんだ魅惑的な微笑、人間と言うよりは、

   むしろ神々しい野獣とも言えるようなお姿であった」

                         亀井勝一郎


夢殿


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