薬 師 寺

唐招提寺より、薬師寺に向かう。薬師寺は天武天皇勅願の大寺である。天皇がのちに持統天皇となった皇后の病気の快癒を記念して、薬師如来を本尊として発願されたお寺である。皇后はウ(虍+田+皿 鳥)野讃良皇女(うののささらのひめみこ)と呼ばれており、天武天皇が大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれた頃に妃となり、天智天皇の御二女であるにも拘わらず、皇子が東宮の時はもちろん壬申の乱のさ中に在っても、常に御身近く助け苦難を共にされたお后である。日本書紀には次のような記述が残っているという。

    「癸未(みずのとひつじ)、皇后体不予(みやまひ)したまふ。則

    ち皇后のために懇願ひて、初めて薬師寺を興(た)つ。仍りて一

    百の僧を度(いへで)せしめたまふ。是に由りて安平(たひらぎ)

    たまふことを得たり」

 天武天皇による発願は六八〇年であるが、皇后は快癒したものの、天武天皇が五年後に六五歳で亡くなっている。このときの皇太子は皇后の実子の草壁皇子二三歳である。しかしこの草壁皇子の他に皇后の同母子である大田皇女(おおたひめみこ)と天武天皇の間に生まれた大津皇子、そして長屋王の父である高市(たけち)皇子がいる。後継問題で紛糾があったのか、天武天皇の後は六八六年に皇后が皇位を継ぎ、持統天皇となった。(これについては持統天皇の即位は六九〇年と言う説もある)そして既に国政に参画して発言力のあった大津皇子が、同年に謀反を企てたとして死を賜るという悲劇が起きている。大津皇子は自らの死が免れないことを知り、ひそかに伊勢に下って斎宮であった大伯皇女(おおくのひめみこ)と今生の別れを惜しんでいる。そしてこのときの歌は、次の通りである。

     わが背子を 大和へやると 小夜更けて

           暁露に わが立ち濡れし     大伯皇女

     二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を

           いかにか君が 独り来ゆらむ   大伯皇女

 大津皇子は磐余(いわれ)の池の畔で処刑され、死後も謀反人として恐れられて、國境の二上山の頂上に國の守り神として葬られている。

     ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を

           今日のみ見てや 雲隠りなむ   大津皇子

     うつそみの 人にあるわれや 明日よりは

         二上山を 弟世とわが見む    大伯皇女            

これは実子草壁皇子のライバルとなっている実姉大田皇女の息子であり甥である大津皇子を消そうとした、持統天皇の謀略の疑いが濃いといわれている。ここでも極めて近親間での骨肉の争いが起きているのである。しかし六八九年にはその草壁皇子元来の病弱な体質から、二十八歳で死去してしまう。この間六九七年に薬師寺の薬師如来本尊が開眼している。そして堂宇の完成は、草壁皇子と天智天皇の皇女(後の元明天皇)との遺児である軽皇子が文武天皇として即位した後のことである。もともとこの薬師寺は大和高市郡(たけいちのこおり)岡本郷に草創されたが、その後元明天皇の平城京遷都の際に、今の右京六条の地に移されたという。

白鳳時代は六四五年の中大兄皇子、中臣鎌足による大化改新で幕を開け、元明天皇(文武天皇の死去後、文武の遺児首(おびと)皇子へのつなぎのため後継した文武の母)の時代の平城京遷都で終わりを告げるが、大化改新、蘇我石川麻呂の悲劇、孝徳天皇の遺児・有馬皇子の悲劇、白村江の戦い、近江大津京への遷都、壬申の乱における大友皇子の敗北、大津皇子の悲劇、持統天皇の藤原宮遷都、と國の内外に亘る争乱の時代であり、そしてまた天智系統と天武系統の入れ替わりの時代でもあった。そういった中で仏教文化はますます隆盛となり、特に仏像の世界では世界に冠絶した美しい仏像が仏師達により創り上げられた時代でもあった。そうして白鳳文化の最後の華として完成された薬師寺も、こうして歴史の史実を紐解くと皇統を巡る様々な骨肉相争う悲劇の上に成り立っていることが良く判る。

平成七年の二月に来たときは南側にある駐車場に車を止めて、八幡神社の境内を通って南門より境内に入ったが、今回は北側の受付より入る。大宝蔵殿の横を廻り、鐘楼の所に来る。すると正面に三重の東塔が、その六重の屋根を優美に拡げて、雲一つない大和の春空に聳え立っているのが見える。そして前回訪れたときに工事中であった回廊が、中門を中心にちょうど金堂あたりまで完成されていた。しかし工事はまだ続くらしく、鐘楼の左手には工事現場用の作業所があるため、やや風情に欠ける面があるのも仕方がない。そのまま東塔の前まで行く。


薬師寺 東塔

 

コメント

このブログの人気の投稿

県 神 社

天 龍 寺

金 閣 寺