唐 招 提 寺

 慈光院より唐招提寺に廻る。当地は現在は奈良市五条町となっているが、都が奈良にあった千二百年前は、平城京右京五条二坊にあたっており、いわば都の中心地であったとも言える。

平城京と平安京の二つの王城の地について、共通して言えることが幾つかあるが、その一つが市街地の東方への移動である。京都についてはまず右京が桂川などもあり、低湿地であったこと。そして旧御所が火災にあって仮御所として現在の地に移った後、現在地にある京都御所が中心地となったこと。また洛外の余り由緒のない花街であった祇園が隆盛したことなどにより、市街地の中心が東にシフトしたと思われる。しかし奈良においては右京が必ずしも低湿帯ではない。にもかかわらず市街地がシフトした理由としては、一つには興福寺が町の中心となったことがあげられるのではないか。興福寺は一時期、大名に変わって奈良地方の所領を統括していた時期があったと記憶しているが、興福寺の寺門の隆盛がその理由の一つにあげられるかもしれない。もう一つ面白いのは奈良の東大寺と西大寺、そして京都の東寺と西寺である。このいずれの官寺も、東のみが隆盛し現在にまで残っている。西大寺は今でも伽藍があるそうであるが訪れる人は少ないし、西寺に至っては碑が残っているのみのようである。

唐招提寺の境内に、南大門より入山する。正面に鴟尾をその両端に持ち重厚且つ豊かな感じのする大棟の金堂が位置し、その左右は新緑の若葉が萌え立っている。芭蕉がこの寺を訪れたのも、若葉の時期であったのであろう。まさに「若葉して おん目の雫 拭はばや」の俳句どおりの光景であり、奈良のお寺には実に新緑がよく似合うなと感動する。

当寺の開山は大唐国陽州大明寺の高僧で、聖武天皇の寵招に応じ十二年間に亘り前後五回の失敗を乗り越えて来日した鑑真大和上であり、創建は天平時代の七五九年である。鑑真大和上が、聖武上皇のご冥福を祈りつつ草創したお寺である。地所はもともと天武天皇の皇子新田部親王の領地を賜ったという。鑑真大和上の来朝は天平勝宝六年(七五四年)孝謙天皇(阿倍皇女)の時代であり、東大寺大仏開眼の二年後である。鑑真大和上を迎えて大仏殿前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝を始め、我が国の多くの高僧が鑑真より授戒している。百済の聖明王よりの仏像・経綸の献上による仏教伝来(宣化天皇の御代、五三八年)より二百有余年、また上宮太子が日本最古の官寺・四天王寺を建立(推古天皇の御代、五九三年)してより百五十年にして、天平文化のもと日本の仏教がまさに大きく華開いた時代に、鑑真大和上という高僧を日本に迎えたことの意味は大きい。鑑真大和上は来朝後五年間東大寺の戒壇院に住したが、唐招提寺建立後は当寺に在すこと四年、七六歳をもって寺内に示寂されている。

当寺の中心は、エンタシス(円柱)の立ち並んだ金堂、平城京の朝集殿と言われる講堂、その西側の舎利殿、小さく可憐な鐘楼の四つの伽藍である。その他には西側の戒壇院、鑑真大和上の御影堂と御廟、本坊、経蔵、宝蔵などがある。時間がないため金堂の御仏のみを拝する。本尊乾漆廬舎那仏と千手観音菩薩、薬師如来の三尊が、堂内に立ち並んでいる。いずれも天平の作であるが、仏教の大隆盛時代の作にしては、御仏に神々しさや崇高さが感じられないのは、甚だ残念である。

    大寺の まろき柱の 月かげを

          土に踏みつつ ものをこそ思へ    会津八一

唐招提寺



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