本法寺

 庭園は本阿弥光悦作庭のもの、と言われている。本阿弥家は光悦の曾祖父・清信(足利家に仕え、刀剣の鑑定・研磨を家業とした)が日親上人と同時期に投獄され、その時に帰依して以来の繋がりがある。天正十五年の移転の際、光悦は父・光二とともにその完成に尽力した。本庭は三巴の庭と呼ばれ、書院東側から南側へ回り込んだ鉤型の庭となっている。渡り廊下を越えて、庭正面の書院へ行く。そこには将軍家茂滞在の間がある。庭は東南の隅に枯れ滝石組みがあり三尊石があるが、中の石を斜めにすることで落水を象徴している。その手前に白砂が大海へと出るその出口に、石橋を架けている。三巴の名の由来は、古来庭園地割りの三ヶ所に巴形の低い築山が造られたことによる。現存のものは改造築などで、様相を随分と変じている。枯れ滝の左方に灯籠を置き、庭先の手前には切石十本による十角形の蓮地を設えている。

そもそも枯山水庭園は禅宗のものであったが、桃山時代には他の宗派にも普及した。そしてこの日蓮宗の庭にも、枯山水と灯籠と十角の池を持つ庭の誕生となったのであろう。しかし禅の庭はやはり簡素さと抽象性の中に良さがあるもので、時代が変わると庭も変容して行くものである。写真等で予想していたものよりは、手入れも悪くやや興趣少なし。

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